Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


私のコアコンピタンス 2007年10月26日 18:40

 走りざかりのチミ達へ〜キモメン♂パラダイスな皆さん、いかがお過ごしかね? (花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイスのオマージュです)

 しかし安心したまえ。例えチミ達がキモメンだろうとブサメンだろうと、あの権力者たる石原慎太郎氏のノスタルジーである三宅島公道レースを、元国際ライダーの宮城光氏がぶっ潰してしまう程、モーターサイクルスポーツは安全が優先されているおかげで、サーキットでチミ達はフルフェイス型のヘルメットを被ることが義務付けられているので、キモメンやブサメンにとって、サーキットは文字通りパラダイスなのだよ。(間違ってもクリアーシールドなど使用してはいけない)
 しかし、である。サーキットがキモメンやブサメンにとってパラダイスだということが今も昔も変わりがないと言うのに、サーキットに集う人達の人種は大きく様変わりしてしまったようだ。私が若い頃、そう、80年代の空前のロードレースブーム当時にサーキットに集っていた人種と比較して、最近になって、私が10年ぶりにサーキットにやってきた際に出会った人種に対して、私は非常に違和感を感じたので、自己肯定は人間の常だが、私は自らのレジティマシー(正当性)を主張しようと、最近の人種を批判したい衝動に駆られた。しかし、色々と考えてみると、彼らを批判するのはおかど違いであり、これは単に時代の変貌でしかないということが分かったので、以下に自分の頭の整理もかねてこのことについて分析してみるとしよう。

★やから
 私より少し上の世代にとって、ギターとバイクはやから(不良)の道具だった。
 バイクをストレートにやからの道具として使っていたのは、御存知、珍走族の皆さんだが、驚くなかれ、現在では我が国を代表とするロードレース界の重鎮たる宮城光氏も、元々はただの不良少年だったのである。しかし、この元不良少年は、森脇護氏に拾われてロードレースの世界に足を踏み入れ、その後見事に更生して、石原慎太郎氏の顔を潰す存在にまで成長したのである。
 他にもやから出世の例は色々ある。
 例えば、「ホンダとは絶対に一緒に仕事はしない」と罵りまわったタレントの岩城晃一氏もまた、元やからであるが、現在では鈴鹿8時間耐久ロードレースの名誉顧問にも就任しているし、レースは中止された三宅島のモーターサイクルフェスティバルのスペシャルゲストにもなっている。
 こうした元やからの人達を見て育った我々の世代は、『バリバリ伝説』の巨摩郡とか『あいつとララバイ』の菱木研二とかのマンガの主人公にも影響を受けたので、本当にハチャメチャやっていた人とか、空想の世界でハチャメチャやっていた人達をお手本にして、サーキットでは死ぬ気でコーナーに飛び込んでいた。そして、空前のロードレースブームの頃には、とにかく予選通過、その後ノービスチャンプ、そして国A(昔の国際A級)に上がり、ショップワークスに拾われ、その後ワークス入りし、夢はWGPに行くことだった。そして、みんながみんなそんなことを考えていたので、競争は激しく、コマケーことをガタガタ言うライダーはあまり居なかった。みんな根性が座っていたのである。
 しかし、最近のサーキットでは、ワークスライダーになると真顔で答える人間など皆無で、かなり多くの人達は、チマチマとライテク本を見てコマケーことをガタガタ語ったり、金を支払ってライテクを教えてもらおうと、真顔でレーシングスクールになど通っている。
 前述したように、私はそうした女々しい連中が全く好きになれなかったし、そうした人達を食い物にして金を儲ける、大口叩きのライターやインストラクターも毛嫌いしていた。
 また、ブログでラインがどうのとかアクセルワークがどうのとかチマチマ書くライダーがいると、「コマケーことはいいから死ぬ気で突っ込めバーカ」などと思ったりしたものである。私と同世代のライダーならば、大同小異な意見を持つ人も少なくないだろう。しかし、実際のところは、サーキットに限らず、他人から何かを教えてもらっても全然平気という自尊心のない人達が最近の世の中では台頭してきているので、何かこれには訳があるのではないかと、私は持ち前の好奇心を働かせてみることにした。

★最近のサーキット野郎(コマケーことガタガタタイプ)
 このタイプのライダーは、ルールに従って生きるタイプのライダーである。
 そのルールとは、「これまでずうっと続けてきたやり方」といった、高位の権威によって定められている。
 そして、このタイプのライダーは、このルールに従ってライテクを高めようと、自らの目標を設定し、日々それに向って努力し、もっと言えば、権威に対して自分を“良い子”に見せたいと願っている。
 彼らは秩序と安定を重んじ、伝統やしきたりを守り、権威が承認しない限り、その他のスタイルに対しては全て抵抗する。
 パドックやブログなどで彼らを観察してみると、彼らは自らのスキルや知識を極めて冷厳に分析し、足りないものを体得するまで、コツコツと非常に真面目に努力する。彼らは、自分の考えをブログに書き出してリストや一覧表にして、それを自分の直感よりも信頼する。言ってみれば、フィーリングよりも箇条書きの方が重要なようだ。
 また、このタイプのライダーは、パーツや情報を収集するクセがあるのも特徴で、部屋にトロフィーなどがきれいに飾ってあれば、そのライダーはこのタイプである可能性が非常に高い。
 また、彼らはデータや数字をイジくり回すのが心底好きで、彼らは、サーキットに行くまでの時間とか、走行にかかるコストとか、常に年がら年中頭の中で何かを計算している。
 また、パドックでの彼らは、他人のタイムや誰がどこで転倒したかといった記憶力の自慢話が多いことも特徴で、コース上では律儀なほどベストラインをしっかりトレースするが、パドックでの会話はオーバーラン気味である。
 また、このタイプのライダーを発見する方法が他にもある。あまりお勧めできない手法だが、彼らは自分が冷遇されることを極端に嫌うので、周りのライダーがシカッティング(シカトの進行形)したり、サーキットの職員が理不尽な対応をしたりすると、頑固、すねる等の受動的攻撃性を発揮したり、あるいはストレートに激怒したりする。
 私が思うに、このタイプのライダーに欠けているのは、ユーモアのセンスだと思われるが、いずれにしても、バイクはタダのオモチャだと、もっと肩の力を抜いて楽しんで頂きたいと思う。
 がしかし、このタイプがエンジニアやメカニックとして働けば、その能力が最大限に発揮されるのもまた事実である。

★最近のサーキット野郎(羊の群れに従うタイプ)
 やからの価値観とは、「誰にも負けねー」である。彼らは、ストリートファイト(ケンカ)に臆することはない人種だったので、オートバイに乗って死ぬ気でコーナーに突っ込むことは、今風に言えばXスポーツ(危険だが刺激の強い極限スポーツ)のように、仲間内の根性試しにはもってこいだった。
 こうした根性試しが幸いし、テクニック論などほとんど全て無視して速くなったライダーは、理論よりも人間が先行しているのが特徴であり、人間が理論についていくのは、負け犬のやり方といった調子である。
 彼らの脳裏にあるのは、“最速”であり、自分が(可能性という意味での)最速であるというのに、他人に従うことなどは全く考えることはないだろう。
 これが、バイクがやからの道具だった古き良き時代のストーリーである。

 しかし、時代は進み、多くの女性が社会進出したことも手伝い、子供達は親元よりも集団で育てられることの方が多くなり、人は同輩集団の中のプレッシャーで行動基準が決まる傾向が強くなった。年功序列もなくなり、終身雇用制度は崩壊し、大企業に就職すれば一生安泰という価値観は崩れ、不安定な雇用環境、更には不安定な職場環境で生きなければならなくなり、人間同士の競争は非常に激しくなった。こうした世の中では、自然と自分を売り込む人間が有利となる訳だが、世の中には、チャンスがあればとにかく自分を売り込むというこうした人間が次第に多くなってきた。
 彼らは順応性が非常に高く、やからのように、“1番強い”とか“最速”といった絶対的なものを重視するのではなく、彼らの自己評価は、常に相対的であり、他人から認められることが基準となっている。
 つまり、大切なのは、「速いか」「遅いか」ではなく、「環境に合っているかどうか」である。
 彼らは環境に順応することに対して、やからと違って筋肉よりも頭脳を使うので、サーキットを継続的な学習の場と捉え、学校や先生嫌いのやからと違い、「私はあなたよりも速いです」あるいは「うまいです」という権威が現れれば、まるで子羊のように従順に権威に従い、金まで支払ってしまうのである。そしてまた、「盲人の国では目が1つある男が王様」とか、「ムカデの国では靴屋が富豪」といった調子で、何か名声がある者がサーキットで権力者となり、同時に金も儲けている。

 しかし、こうした盲目的に権威に従う人達をオメデタイと思うなかれ。彼らは貯金の為の貯金を美徳とは考えない人達であり、この人間同士の競争社会において、彼らは外観や知性を磨くことに惜しまず金を使う新しい世代の中の、たまたま趣味がサーキット走行だっただけという人達なのである。
 彼らは、やからと違って、『絶対に速い自分』というものを確立しておらず、自分の中核というものがないので、『あるがままの自分』を表現できないという欠点を内包している。他人から見て、「フォームはカッコ良く決まっているだろうか?」とか、「間違った操作はしていないだろうか?」といった、他人からの視線を非常に気にするので、他人のブログを熟読し、正反対の意見の中間をさまよいながら妥協点を模索している。激しい競争社会では、ハミ出し者は潰されると本能的に知っているかのように…。

 しかし、公平を期して彼らの良い面を挙げれば、彼らはネットワーク作りに優れている。もちろんブログやmixiは彼らの能力をうまく引き出している素晴らしいツールになっている。彼らは、環境に合っているかどうかを無難に考え、まるで掲示板のように、その走りはニュートラルな所に落ち着いてしまう訳だが、思いやりがあり、人々と結びつく能力に長け、相互依存が得意で、奉仕と協力をいとわず、他人を信頼している素晴らしい彼らと私は、まるで水と油のようだ。

★舵取り
 余談だが、最近話題の沢尻エリカや亀田一家は、同輩集団の中のプレッシャーで行動基準を決めず、孤立主義というバックボーンで成功した、いわば現代のやからだが、ルックスや演技力や家族愛というネタで彼らを持ち上げた周りの人達は、自分達に無いものに対する憧れが原動力となり、やからを叩いた時には、自分達にはないものに対する“ねたみ”が原動力となったようで、持ち上げるにしても叩くにしても、全員の足並みが揃っている所が、中身のない全体主義を抱く現代人の姿をよく表している。そして、やからを持ち上げ、叩いた人達は、ルックスとか演技力とか強さとか、そうした絶対的なものを客観視するよりかは、全ての関心は記者会見に向けられ、記者会見は、やからがハミ出し者か、それとも自分達と同種の人間かを相対的に見て裁く、魔女狩りの場へと変容し、この魔女狩りの儀式は、現代人の更なる同質化に貢献している。

 話を戻して、最近のサーキット野郎は、速ければ何でもありというやからとは“まぎゃく”に位置する人達なので、人当たりも良く、口のきき方も丁寧で、パドックで仲良しクラブを形成している。
 「一体それのどこが問題なのだ?」とあなたは言うかもしれない。なるほど。もちろん何の問題もない訳だが、亀田が出ないボクシングの視聴率が低いように、ロードレースの視聴率はもっと低く、我々は若き日の宮城光選手や、マンガの巨摩郡のようなヒーローを欲している。しかし、仲良しクラブから果たして若き日の宮城光選手や巨摩郡が誕生するのだろうか?
 ここに、問題がないことが問題という皮肉なパラドックスが生じている訳だが、ロードレースをK−1のようなエンターテーメントにするのか? あるいはサラリーマンの休日の教養講座にするのか? あるいは両方をリンクして相乗効果を狙って儲けるのか? ロードレース関係者は、誰かの舵取りを期待しつつ、自らは動けないというジレンマに直面している。

★アーブ山口
 最後に私について語ってみよう。
 皆さん御存知のように、私はパラノイック(偏執的)で自己陶酔的な人格の持ち主で、一言で言えばキモい。(笑)
 私は最近のサーキット野郎と違い、他人に好かれようとか、多くの友人を作ろうといった特別な努力は全くしない。誰かの教えに従おうとか、継承しようとかも全く考えない。メジャーな舞台で結果を出してハクをつけようとか、専門家として一目置かれようとかも全く考えない。従って、こうしたものがもたらす安心感を維持しようといった努力も全くしない。他のサーキット野郎の考え方を吸収することも全くないので、内なる声に反抗する理由も全くない。
 私にはライバルもいないし、他の何かに対して対抗心もない。つまり私は、世の中に“抵抗”するのではなく、世の中を“無視”してやりたいことをやっている。
 従って私は、自分の個性やアイデアが生かせない環境に対しては我慢がならない。
 私は転倒しても平気だしヘンテコなフォームで走っても平気だし使わないのでリアブレーキだって平気で取り外してしまう。(笑)
 何かに縛られるのはまっぴらゴメンだし、とにかく自由にやっていたいと考えている。そして、この自由に生きる自分のコアコンピタンスが、自由の象徴であるバイクという乗り物であり、何度も言うようだが、サーキット野郎が自由の象徴を台無しにして他人に従っている様は、いつ見ても大変愉快であり、私に限りない満足感を与えている。

 つまり、最近のサーキット野郎の多くは孤独な群集であり、私は孤高の表現者である。



番外:アーブ山口ウィキペディア
 ハイスクールは2ヶ月で自主退学。




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