Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


夢を持ての欺瞞
2009年7月17日 11:52

ワタミ社長「マスコミは派遣村に過保護」〜派遣切り自己責任シリーズ



ワタミフードサービス給料未払い



内部告発でワタミに解雇された元パートが提訴



 最初にダブルスタンダードで述べておくと、「リスクをテイクしている人間からは自由は奪えない」という意味での自己責任、具体的に言えば、危険だと分かっていてもサーキットを走るとか、たまに得して、たまに損することもあるが、そうしたことを確率論的に考えてヤフオクで商品を落札するとか、そうした意味での自己責任と、色々な境遇に悪いことが重なって、社会の底辺に転がり落ちてしまった人が、そこからなかなか抜け出せないことを、“自己責任”で切り捨てるのは、全く次元が違う話で、ダブルスタンダードだと言われようが、前者は常識であり、後者は切り捨てるべき問題ではないと私は考えている。

 更に言えば、現在の派遣切りなどの問題を生んだのは、明らかに規制緩和が原因であり、コーポレートクラシー、つまり、大企業の幹部連中が、自分達は数千万円の報酬を得ている反面、労働者からはいかに労働力を搾取するかという視点にて、小泉・竹中の政策を後押しし、日雇い派遣を製造業にまで拡大したりと、正社員を減らして、いつでも切れる派遣に雇用をシフトし、更には、副次的な問題として、ピンはねする派遣会社の中には、法を犯してまでこのシステムに乗っかりボロ儲けする会社も現れ、労働者達は益々搾取されたという構図がある。

 何度でも書くが、ちなみにデンマークでは、派遣社員は、安定した収入が得られない可能性があるので、正社員よりも給与が高くなるというシステムで、企業側は、正社員を雇うよりも、派遣社員を雇う方が損するというシステムとなっている。

 この、派遣社員を雇って企業側が得する国と、派遣社員を雇って企業側が損する国では、自己責任論も全く違ってくる訳だし、我が国で派遣切りにあって路頭に迷っている人は、デンマークなら手厚く保護されるのだから、こうした方達は、単に“精子の宝くじ”でハズれて、日本というバカげた国に生まれたことが災っただけだとも極論できる。

★足るを知る
 1番上の動画を見ると、ビジネスで成功した人間と、文化的に成功した人の感性というか価値観の違いが出ていて面白い。

 ビジネスで成功したワタミの社長は、自分が成功して金持ちになっても、まだまだ野心満々で、自分より下の人間に対して想いをはせるなどと言った感情は薄く、「根性でここまで這い上がって来い」と言わんばかりだ。

 しかし、教授(坂本龍一)などは、相当に金持ちだと思われるが、ワタミの社長とは全く感性が違っていて、弱者に対しても思いやりがある。

 私自身、東京の青山という、お金持ちが沢山生息する地域で生まれ育ち、クラスの半数がスネオという特殊な環境で育ったおかげで、貧乏な人が蔑んで見る対象的な、いわゆる“成り上がり”タイプのお金持ちと、また、元々お金持ちで、奥深い知性を感じさせながら、性格的におっとりしているタイプのお金持ちと、お金持ちには2種類がいると子供ながらに考えていた。

 そして、前者の“成り上がり”タイプは、自分で稼いだお金は、自分の実力のおかげと、かなり相当に“ナル”入っているのが特徴的で、稼いだお金をひけらかしたいので、派手な外車に乗ったり、派手な服装に身を包んだり、デーハーなチャンネーを連れていたりするが、それでいて自分が稼いだお金はビタ一文他人には渡したくないという卑しさがにじみ出ているので、貧乏な方達はストレートにこうした人を蔑んで見てよい。(笑)

 しかし、後者の、元々資産家でおっとりしているタイプとか、あるいは教授のように、お金に執着心などないのに、その才能や“運”のおかげで、自分の意思とは関係なくお金持ちになってしまった人は、考え方もおっとりしていて、むしろ、パンピーでいるよりも裕福なだけ、弱者に対しても優しい人達だと言える。

 つまり、端的に言えば、お金を持ちすぎたことで、足るを知ることが出来たのか出来なかったのかという問題で、これまでの歴史であらゆる聖人君子が言っているように、貧乏だろうが金持ちだろうが、足るを知っていれば幸せだし、どんだけ成功しようが、現状に満足しない不満屋はいつまでも不幸で、弱者に想いをめぐらせる余裕などないのかもしれない。

 私は幼少期から色々なお金持ちを観察して、お金持ちなのに幸せという人は、せいぜいウォーレン・バフェットくらいで、バフェットの行動を観察していると、お金持ちで幸せになるには、それはそれで一種の才能が必要なのではないかとつくづく思ってしまう。従って、その才能がない人は、パンピーとして生き、「足るを知る」ことを優先する方が、むしろはるかに幸せになれるだろう。

 私の父が語っていた、「庶民が一番幸せ」という言葉は、どうやら本当のようだ。

★幸福と幸福感
 別の視点でもものを考えてみよう。

 さて、皆さんは、幸福と幸福感について考えたことはあるだろうか? ここで言う“幸福感”とは、比較によって得られるもので、一時的には満足できるが、すぐに消えてなくなってしまう種類の幸せのことである。

 これに対して“幸福”とは、比較によらないもので、普遍的で持続する喜びのことである。

 サーキット野郎にもっと分かりやすく説明すると、ライバルよりも速いバイクを手にした時は、一時的に幸せだが、ライバルがもっと速いバイクを手に入れれば、その幸福は無くなってしまうので、非常にはかない幸せと言える。

 しかし、サーキット走行を通じて知り合った仲間と一緒にワイワ楽しんでいる内に、そうした人達との絆みたいなものが生まれて、生涯かけがえのないものとなれば、それが幸福である。

 つまり、幸福感が「人よりも」だとすれば、幸福は「人と共に」である。

★精神の破壊
 答えはいつでもシンプルであり、“幸福感”か“幸福”なのかの判断は、「自分のためなのか? みんなのためなのか?」あるいは、「今だけか? いつまでもか?」で見極めれば簡単である。

 しかし、私が絶対平和主義と博愛主義と民主社会主義に惹かれるのは、単純に自分も幸せになりたいという欲があるからなのだが、その道が険しいと分かると、人は安易に他人との比較で“幸福感”に手を出しやすくなってしまう。

 そして、その結果幸福感だけを追及していくと、競争が激化し、環境も破壊され、人間不信や孤独感にさいなまれたりし、人間は環境だけでなく、精神も破壊することになる。

★武士道の弊害
 話コロッと変わって、私は右翼について色々と学んでいる内に、右翼の精神的支柱のルーツに、武士道があると考えるようになってきたが、この武士道について調べていくと、武士道は、何も右翼だけでなく、経済成長を支えた世代の企業戦士としての心情的理性にもなっていることを発見した。

 以前にも書いたが、武士道とは、主君に対する忠誠と、自己の所属する集団中心の尚武精神が特徴だが、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉に表れているように、武士道が精神的ベースにある人達は、情熱的で純粋な行動を賛美して、日頃から生死をかけた真剣勝負のつもりで働くことをよしとしている。

 そして、こうした一所懸命とか一生懸命と言った考え方が、現代の企業風土の中にも溶け込み、我が国の経済成長を支えてきたとも分析できる。

 更に言えば、こうした背景からか、日本人というのは、武士道をベースにした島国根性が発揮されて、ある種独特の民族意識も醸成されたような気がする。

 そう、これを読む皆さんも、我が国の経済成長を支えた団塊の世代の上司などが、ほとんど理不尽とも思える懐かしい根性論を迫ってきたりという経験もおありだろう。

 また、選挙でいつまで経っても右派の政治家に投票してしまうのも、征韓論などをベースにした日本人の悪しき慣習をひきずった老人達と、更には、企業戦士を気取った団塊の世代に多い気がする。

 こうした、私より上の世代の、極めて日本人的な武士道をベースにした価値観を持つ人達は、幸福よりも、“幸福感”を追い求めているようにしか見えないので、第三者的に彼らを傍観すると、大変可哀そうにも思えてしまうが、それらの人達の弱者に対する差別意識や、他の民族に対する選民思想などにより、本当に社会的弱者の人達が虐げられてしまったり、あるいは軍事大国を目指したりしてしまうことを考えれば、とっととこうした人達に改心して頂きたいと思われる。

★ゆるい世代
 私は、生まれた時にすでに豊な生活を享受していて、海外に通用する才能を持った日本人も多く見て育ったので、他の民族に対するコンプレックスもないし、他の民族にリアルに襲われた経験もないので、他の民族を憎んでもいないという、かなりおっとりした“ゆるい世代”だと思う。

 また、教授も含めて、清志郎や、あるいはマイコーやボーイ・ジョージや、ジョンやポールと言った平和を愛すミュージシャンのメッセージをそのまま受け取って育った世代なので、右派的思想などまったく体が受け付けない。

 また、いわゆる70年代のヒッピーカルチャーなども知っているので、“みんな仲良く”をベースにした方が、絶対に幸せになれるというか、むしろストレートに幸せにやってきたという、恵まれた世代でもある。

 このように書くと、もしかしたら団塊の世代の方々が、「オマエ達が幸せを享受できるのも、俺達がこの国を経済成長させたからだ」と自負するのかもしれない。

 たしかに、現在のケバケバしく派手な感じがする現代文明を、我々や我々より若い世代が享受できるのは、我々より上の世代の頑張りのおかげで、我々の世代と、我々より下の世代の人達は、大人達から自動車とか高級バッグとか、様々な豊さの象徴とも言えるものを与えられた。

 そしてその結果、現代社会は、私を含めて多くのマテリアルボーイ(物質主義の少年)やマテリアルガール(物質主義の少女)を誕生させることになった。

 しかし、その一方で、人類全体が物質主義を抱いたことで、環境は破壊され、現代人の短期的な利便性の為に大人達は原子力発電所を作ったので、原子力発電所が廃棄する放射性廃棄物が生み出す放射能が生物圏に漏れないよう、この放射性廃棄物を24時間ぶっ通しで厳重に管理保管する義務と責任を、今後25万年間にわたり我々は子孫に押し付けることになった。

 ちなみに、25万年というのは、一般的に放射性廃棄物が無害となるのに必要な平均的な期間であり、それに対して人類のこれまでの文明史は“たったの”6000年しかない。果たして、たかだか100年程度の寿命しか持たない生物の短期的な利便性の為に、今後25万年間もの間、放射性廃棄物の管理保管の義務と責任を子孫に押し付ける事など、本当に許されるのだろうか?

 また、めまいはするものの、放射能は25万年後に消えるという問題だが、人類は未だにオゾンホールの修復の仕方を知らないので、大人達があけたオゾンホールは今後もあいたままである。

 また、恐竜時代には1年間に0.001種類の生物しか絶滅しなかったというのに、現在は、乱開発による生態系の“根こそぎの”破壊が進んでいて、皆さんが大好きな牛肉を作る為の熱帯林の破壊、山の切り崩し、湖沼や河川の埋め立て、河川や海岸の護岸工事(コンクリート化)、ゴルフ場、リゾート、コンビナートなどの開発、農薬、環境汚染などにより、なんと1年間に1万種の生物が絶滅しているが、もちろん、人類は1度絶滅した生物を生き返らせる方法を知らない。

 また、この生物種の絶滅は、単に絶滅した生物種が可哀そうという問題ではなく、現在の急激で大規模な種の絶滅は、生態系全体の崩壊も意味しており、他の生物が絶滅することで、その被害はドミノ倒しのように人類にも迫ってきており、ターニングポイントは近づきつつある。

 この他にも、人類が抱いた物質主義のツケは大きく、地球温暖化、森林破壊、酸性雨、海洋汚染、人口爆発と貧困、食料問題などなど、人類はあくなき欲求を優先するあまり、問題が多い割にはこれらの問題を何ひとつ真剣に解決しようとはしていないという気さえしてしまう。

 つまり大人達は、我々に夢と希望を与え、未来を奪ったのである。














★オマケ

Material Girl Madonna


 女の子がオケカラで彼氏の前で歌うのが御法度な曲。キスやハグよりも現金をくれと言った内容で、♪だって、私達は物質的な世界に生きているし、なんと言ってもあたし自身が物質主義なのよ!♪と歌っている。




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