Erv's Letters index | Text by Erv Yamaguchi |
祝、高速道路2人乗り解禁(3) 2004年12月30日 09:30 前回の私の記述はマズかった。 どうやら私はインターネットというものを過大評価していたようで、前回の記述により、私は多くの人達を敵に回してしまったようだ。 そこで、ケツの穴が小さく、まるで羊のように小心者の私は、前回の記述を撤回し、ここに訂正したいと思う。 えっ? 何々? 何の記述だって? それはもちろん、「オートバイは、迷惑なので一般公道を走ることも禁止すべきだ」という部分である。 この記述は多くの方達に不快感を与えたようなので、私はここに謝罪すると共に、次の言葉に訂正したいと思う。 「オートバイだけではなく、自動車など全ての化石燃料を消費する乗り物は禁止すべきだ」 そう、インターネットというのは、この惑星上の幸運な上位10%の人達が利用する、排他的クラブでしかない。 従って、「オートバイは、迷惑なので一般公道を走ることも禁止すべきだ」などという中途半端な記述では、コンシューマリズム(消費至上主義)を抱く先進工業国に到達した人達以外の、多くの貧困層に属す第3世界の人達が満足しないのである。 更に言えば、清潔な水にもありつけない現在の貧困層の方達だけではなく、このまま我々が化石燃料を消費し続ければ、“未来の使者”である、我々の子供の世代の将来を奪うことにもなるのだ。 つまり、自動車が環境と社会と未来に与える影響に対しては、高級車であれオートバイであれ、乗っている人に責任があると言える。なぜならば、5億台以上とも言われる自動車は、年間25万人にものぼる交通事故死者と、地球全体で化石燃料から排出される炭素の少なくとも13%、地球の大気汚染、騒音公害、酸性雨の相当部分の直接的原因となっているからである。 えっ? 何々? そうは言っても、現代社会では、もはやクルマがないと生きていけないような構造になっているので、不可抗力だって? おっしゃる通りである。 たしかに、地方に住む人達などは、買い物に行くにしても、自動車がなければままならないような町のつくりになっている場所も多いだろう。しかし、面白いことに、高性能なスポーツカーや、あるいは悪路に対する走破性の高いレクレーションビークル(RV)車などを欲しがり、実際に所有する人達は、その性能を最も使う可能性が低い都会に住む人達が乗っている割合が多いのである。 こうした都会に住む人達は、相応の服をまとい、相応のクルマに乗り、相応の地域に住むことで、「私は大丈夫だ、しかるべきグループに属している」という自己表現の為に、無駄な消費に加担しているとも言える。ちなみに、経済学者のソースタイン・ヴェブレンは、こうした無駄な消費が果たす機能のことを、『金銭的儀礼』と名付けた。 つまり、広告代理店で働く人達や商社マンが、BMWからベンツに乗り換えたり、昔は250ccのオートバイに乗っていたライダーが、現在はドゥカティの999に乗ったりするのは、正にこの金銭的儀礼の果たす役割が多いだろう。 しかし、アリストテレスは大昔に、「人間の欲望には限りがない」と語ったが、じゃーどうすればいいのかと言ったことにはだんまりを決め込んでいた。むかつくヤローだ。 しかし、先日はキリストのお誕生日だったが、このおっさんが生まれる一世紀も前に、ローマの哲学者ルクレチウスは、次のように語っていた。「こうして樫の実は嫌われはじめ、干草や枯葉を敷いた寝床は見捨てられた。獣の毛皮でつくった着物も時代遅れになった。…昨日は毛皮、今日は金で飾った紫衣。どれも人生を憤りで苦いものにする」。 このおっさんの2000年後には、レオ・トルストイが次のように語った。「物乞いであろうと百万長者であろうと、自分の境遇に満足している人間がいるだろうか。1000人に1人もいないだろう。…今日、外套とオーバーシューズを買えば、明日は懐中時計と鎖を買わずにはいられない。あさってには、ソファーとブロンズ製のランプのあるアパートに入らなくてはならない。そのつぎは絨毯(じゅうたん)とビロードのガウン、そして屋敷、馬と馬車、絵画と装飾品だ」。 そしてアーブ山口は今日語った。「その辺のバイク乗りだろうと、アーブ山口だろうと、自分の境遇に満足している人間がいるだろうか。1000人に1人もいないだろう。…16歳の時ならば、ヤマハのジョクでダートを攻めていたが、(これが私の原点である)その内250cc、400ccとバイクはでかくなり、今は600ccか1000ccでないと満足しなくなる。そしてこれらのバイクを走らせる為に、前後で4万円前後のラジアルタイヤを2時間位で消費し、その次はタイヤウォーマーや発電機だ」。 つまり、経済学者に言わせれば、「ニーズ(必要な物)は社会的に定義され、経済進歩の速度にあわせてエスカレートする」という訳だ。 しかし、ここで心理学者を登場させれば、貧困層にある国々の人達と、裕福な先進国に住む人達の幸福度を計ると、その違いは所得の差と比例していないそうである。 例えば250ccのバイクから1000ccのバイクに乗り換え、排気量で4倍、車体価格で2倍になったからと言って、幸福度は4倍や2倍になっているだろうか? むしろ、経済的に苦しくなった分や、周りの人達のエスカレートぶりでストレスをためてしまっている人も多いのではないだろうか? 現在の600ccと1000ccを中心とするサーキットの閉塞感を傍観するに、現在のエスカレートしたマシンを取り巻く環境は、上記のルクレチウスの語った、「どれも人生を憤りで苦いものにする」という状況と似てはいないだろうか? 果たして、1度引き上げてしまったレベルを、元のレベルに戻すことは、ドン・キホーテ的な発想なのだろうか? おっと、話が脱線して、ついついロードレースのことになってしまった。 そうではなく、言いたかったこととしては、一般公道にて、不可抗力で使用するトランスポーター(“トランポ”のことではなく、移動手段の意)は、別に軽自動車やカブで充分なのではないだろうか? 更に言えば、できるだけ公共機関の乗り物、例えば電車やバスを利用し、行ける所はなるべく徒歩や自転車を利用した方が、環境負荷も少なくなるのではないだろうか? そして、もしあなたが私の文章を読んで、自動車やオートバイをこの世から追放する活動家として目覚めたならば、たった今から、ありとあらゆる自動車やオートバイ関係の掲示板を荒らし回って頂きたいと思う。そうすればあなたは、単に社会性のない迷惑な人のレッテルをはられることだろう。おめでとう。 ふーっ。これでエコロジストの皆さんが、私のプライベートな掲示板に、あまりありがたくない書き込みをすることはなくなることだろう。 そう、自動車やオートバイが一般公道を走らなくなることで、最大のメリットを享受するのは、他ならぬ私なのである。(核爆) もし、私の文章を読んで頭の中に混乱をきたしたという健全なドライバーやライダーの方は、たまにはコンシューマー(消費者)ではなく、コンサーバー(節約者)になってみてはどうだい? ★追伸 シアトル市では、都市部を走る地下鉄の利用を促進しようと、地下鉄の料金は無料だそうである。なぜならば、都市部に流れ込む自動車による大気汚染に対する対策に費用をかけるよりも、地下鉄の一部区間の料金収入を犠牲にする方が、費用対効果に優れているかららしい。 我々ドライバーやライダーは、我々に対するヒステリックな批判に対して、モータリゼーションを取り巻く時代の暗部を直視する勇気を持つことは大変重要だが、次には、代替案に富んだ政治家をセレクトすることも大切なことだろう。 |
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