Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


戦争を知らない私 2005年7月2日 21:46

 今朝は、録画しておいた『朝まで生ビール!』ではなく、『朝まで生テレビ』を観ていたが、いつも出演しているコメンテーターがおらず、全員が初出演と思われる、80歳前後の戦争体験者の方が出演していて、それぞれの戦争体験を語るという主旨の内容となっていた。御覧になった方はいるだろうか?

 ところで、私自身はというと、もちろん戦争体験はないが、自身の信念としては、非武装中立論者であり、極端なリベラリスト(平和主義者)、つまりは絶対平和主義者であり、マハトマ・ガンジーのアヒムサ(非暴力主義)を抱き、平和を愛す表現者として、ガンジーがそうであったように、菜食主義をつらぬいている。

 しかし、実際の私は周囲の人達からは、(特にバーチャルなインターネット上では)かなり好戦的で攻撃的な性格だと思われている。
 実際にそれは私のある側面としての事実でもあるので、それならそれで構わないのだが、自分の攻撃性を表現できるオートバイというジャンルと、人類の戦争の歴史をかなり強引な手法でリンクさせ、無理やり自己矛盾について語ってみよう。

 私はズブの素人なので、学者からは異論反論があると思われるが、近代史においての国家の進化は、商業的及び軍事的目的を追求する為に、領土拡張を正当化することだったようだ。
 つまりは、それまでは機械的で無機質的だった近代史において、新しい領土を求めて拡張していくという手法が編み出されてから、国家は突然命と心が備わったかのようだった。そしてこれは地政学理論によって正当化された。
 戦争の出番である。
 それまでの帝国主義的投機が、世界をキリスト教に改宗させることや、自由・平等・博愛を広めることに意味を見出していたのに対し、今度は地政学にのっとり、絶えず商業的縄張りと軍事支配を拡大するように人類は歩みだした。

 もっと古い時代を思い出してみよう。
 大昔の人達にとっては、土地というものは、常に神聖な意味をおびていたようだ。土地には深いスピリチュアル(精神的・霊的)な意味が宿っていた。しかし、近代に入り、人類が土地に柵をつくり、自分の領土を“囲い込む”という方法が一般化してからは、大昔からの人類と土地との関係は一変し、過去何世紀にも渡って人類が土地に帰属していたというのに、今度は立場が逆転して、土地は単なる経済的資源に格下げされ、戦争により戦略的資源にまでおちぶれることとなり、土地が人間に帰属することとなった。
 つまりグローバル・コモンズ(地球という共有地)は、単なる軍用地図になってしまったのである。

 しかし、時代は更に進んで、1945年の8月には、アメリカのトルーマン大統領は、太平洋戦争の終結を早め、アメリカ兵の命を救うという“限定した目的”の為に、我が国に原爆を投下した。
 しかし、今日(こんにち)では、多くの歴史学者が、トルーマンの公式見解の裏には、別の目的があったと指摘している。
 もちろんそれは、戦後世界における地政学的地歩を確立することである。
 具体的には、原爆投下でソ連を震え上がらせ、戦後にヨーロッパでの勢力拡大をスターリンが目論まないようにけん制する目的があったという。しかし、アメリカの誤算は、ソ連が核兵器を保有する寸前だったことを予想していなかったことで、ソ連の核実験成功後、人類は新たな時代へと突入することになる。
 核兵器の時代である。

 核兵器は、地球上の生物を文字通り一瞬にして絶滅させる力を持っている。従って人類は、1945年の8月6日までは、自分の死を個人的な問題ととらえていたが、広島に原爆が投下されてからは、人類は種としての絶滅を予期して生きなければならなくなった。
 多くの国家は、国家の目標として、核保有国を目指しているが、インドが核を持った時には、隣国のパキスタンの当時の首相は、「草を食らって」でも核を保有すると警告していた。
 例えばあなたは、ガソリンがいっぱいつまった部屋で、マッチを8本持っている人と3本持っている人がいたら、8本持っている人のほうが地政学的に有利だと思えるだろうか? 我々は核保有国が存在する限り、好むと好まざるとに関わらず、常に集団自殺の潜在的犠牲者となっている。

 さて、戦争反対論はこれくらいにして、戦争を知らない脳天気な我々現代人は、実際には集団自殺の恐怖を感じながら生きているという実感はあまりなく、あくまでも脳天気をつらぬいている。それは、これまでの土地を囲い込むという概念の希薄と同時進行であることが、私の興味をひいた。
 前述したように、大昔の人達の安全の概念とは、土地との結びつきであった。現実的には、地域共同体との深い結びつきであり、これが人々にとっての安全の拠り所となっていた。
 しかし、現代人は、自由にさまよい、新しいフロンティアを求め、知らない場所に足を踏み入れることを求めだした。そして今日では、土地への依存ではなく、“可動性”が新しい安全のイメージとなっている。

 現代人は、“可動性”に対して深い執着とこだわりを持っているように感じる。それは現代人のクルマやオートバイに対する愛情に端的に表れている。なぜならば、現代人の生活の中で、クルマほど可動性を具現化しているものはないからである。クルマやオートバイは、人間が我が身に備わっていればと願う様々な性質や特徴を体現する為に、人間はクルマやオートバイの性能を自分のもののように錯覚する。
 しかし、皆さんウスウス知っている通り、クルマやオートバイは、モータージャーナリストの話の腰を折らせてもらえれば、それは破壊的な非軍事的兵器である。
 クルマがガソリンを1リッター燃焼させると、約2.6キログラムの二酸化炭素が大気に放出され、平均的なクルマは年間に5トンの二酸化炭素を排出し、地球温暖化の最大の元凶となっている。
 クルマは更に、自然環境をも破壊している。それは道路である。1909年に初めて舗装された道路が生まれてから、道路は文明市場最大の公共工事となり、膨大な土地を文字通りアスファルトで固め、先祖伝来の“お土”を埋め尽くした。また、クルマは自然環境だけでなく、莫大な数の人間と動物達を殺してきた。専門家によれば、アメリカでは、過去200年に自動車によって死亡した人数は、その間に起きた戦死者の数を上回っているという。
 皮肉なことに、ケバケバしくハデな感じがする華やかなモータリゼーションの進化と、世界最大の公共工事が行われた現在において、東京近郊では、ラッシュ時には32km進むのに普通90分は必要になるそうである。

 しかし、自動車や道路が、これだけ自然環境に対する戦争で最も破壊的な非軍事的兵器だというのに、政治家は絶対に自動車や自動車文化に対しては攻撃はしない。恐らく有権者の心情を意識しての行動なのだろう。更には、自動車が及ぼす経済的効果も考慮しているのだろう。ちなみに、もしあなたが自動車文明に反対の政治家が現れたならば、その政治家に一票を投じるだろうか? 恐らくほとんどの人がその政治家は無視することだろう。こうして我々は、“背にハラ”という言葉と共に、集団的自滅へと歩んでいる訳だ。
 以前、とある国内2輪専門誌の編集後記にて、編集長が、レーシングマシンが毎年毎年コースレコードを更新していく様をみて、人類の進歩を感じると記述していたのを読んだことがあるが、わたしにはまるで、空き缶のプルトップが発明された時に、その空き缶に『エコマーク』が印字されたり、森林の中をクルマを走らせて、「環境に優しい」とほざく自動車やガソリンのテレビCMのように、“どあつかましく”、空虚な考えだと思った。本当にそう思った。
 産業革命以来の、ここ200年の人類の対自然界に対する戦争を省みると、私には科学技術は万能ではなく、むしろ無能にすら感じてしまうが、これを読む皆さん同様、現代社会に対するある種の執着心も持ち、そうした自分自身の自己矛盾を飼い慣らしつつも、私は皆さんに対しては、現代の唯物的科学技術万能主義を手放しに歓迎する態度に対しても、懐疑の目を向けて頂きたいと思う。

 今朝観た『朝まで生テレビ』にて、80歳前後のお年寄りのお話を聞いて、そんな風に私は思った。




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