Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


将来の展望 2008年1月11日 23:11

 あけおめよろよろ。

 さて、将来が絶望視されている2輪業界だが、業界の発展について、色々と侃々諤々(かんかんがくがく)と語り合うことは、どうやら不毛のようだ。
 もちろん、メーカーという名のパトロンからの援助でやっと息をしている国内2輪専門誌などは、2輪業界の発展についてタテマエでストレートに楽観的に語ることが宿命なので、その天真爛漫さは誠に微笑ましい限りだが、受信者負担ではなく、発信者負担にてスイーツ(笑)チックにこの話題をインターネットの世界に持ち込むと、小林ゆきさんのように、rider2.0からは余裕でDISられてしまう。(かわいそうに)
 かと言って、私自身はインターネットの住人達からリスペクトされたいと思っている訳ではなく、インターネットの特徴である、単なる“ヒマ潰し”との親和性を考慮して、インターネットの住人の方達向けに、悲観論を悲観しない文章を書くとしよう。

★語られない正攻法
 バイク乗りがパブリックロード(一般公道)を走ると感じるのは、4輪車からの排他性である。つまりは、道交法や、道路のつくり自体は、あまり2輪の存在を考慮していない。これがまず、2輪を社会的に広く認知させたいと考える原動力となっている。
 次に、モーターサイクルスポーツの分野も、多くの世界チャンピオンを排出しているにも関わらず、一般的には全く認知されていないので、これもまた、モーターサイクルスポーツを社会的に広く認知させたいと考える原動力となっている。
 しかし、世の中はそう甘くはなかった。
 問題を逆方向から眺めてみる、つまりは、クルマから見た場合、バイクは単に危険が危ないシロモノ家電であり、出来ればいなくなってもらいたい存在に成り下がる。
 ライダー達も、自分達の権利は主張するが、大抵の場合は、排気音を大きくしたり、制限速度をオーバーすることが楽しみの中心になっているケースが多い。仮に、道交法を守り、静かで優しい運転を楽しみたいとツーリングライダーが欲するのであれば、ある種そこに2輪を社会的に認知させるニッチがある。
 例えば、我が国には時速100km以上で走っても良いパブリックロードはないが、自動車メーカーは、みんな時速100km以上で走行可能な自動車を販売している。結果、自動車は死者を沢山生み出す殺人兵器だというのに、殺人の罪は運転手がかぶり、自動車メーカーは裁かれない。
 ここでバイクの出番だ。
 そう、バイクを作るメーカーは、2輪の認知度を高める為にも、絶対に時速100km以上が出ないバイクを開発するのだ。
 例えば、上り坂になった場合には、路面の傾斜を感知するセンサーにて、平坦な路面を走行している時よりも多く馬力が出るようにして、上り坂でもストレスなく時速100kmをキープし、逆に下り坂では、ジェネレーターで抵抗させてブレーキをかけると共に、発電してハイブリッド化してしまうとか、更には、2輪の認知度の向上が達成されたあかつきには、国交省などと協力して、速度表示の標識、もしくは全道路に埋め込まれたICタグとか、あるいは国交省など無視して独自の人工衛星からの無線信号により、絶対に制限速度を超えないバイクを開発するのだ。そうすれば、バイクによる速度違反は全滅し、警察の収入も減ることだろう。ザマーミロ。
 こうして、バイクはクルマと違って、絶対に制限速度違反をしない素晴らしい乗り物として世間に認知されましたとさ、メデタシメデタシ。

 しかし、2輪の社会的な認知度の向上において、学校が教える道徳である、「自由には責任がつきまとう」という、自己犠牲の精神をベースにした、上記のような正攻法で語られることは全くないが、その理由は、間違って解釈されている個人主義が、実は私利私欲の勧めでしかなく、時速100kmしか出ないつまらない乗り物を生産して自滅するよりかは、ニッチを利用して売れる限り売ってしまい、問題点はもみ消すか、その部分だけパッチを貼って誤魔化すことがメーカーの常套手段であり、権利の主張は自分たちが支配する国内2輪専門誌にでも勝手にやらせておけというのが実情であり、危ないが魅力的なバイクの販売と、広くは認知されないが、かろうじて存在は許されているという認知度に対して、メーカーは自分達の生存権をある種バランス良く考えていて、一言で言えば、大人の社会は汚いのだ。

★時代の象徴
 モーターサイクルスポーツに全財産を投入して人生をスティック(棒の意:ルー語)にふってしまった方達は本当に気の毒だと思うが、モーターサイクルスポーツの世界とは、完璧なるヒエラルキーの場である。
 この、ヒエラルキーは、隣の洞窟に住む奴よりも速く走りたいという原始時代からの由緒ある伝統に支えられている訳だが、人間の能力だけではなく、そこに機械が加わってしまったことで、内容は別物になっている。
 つまり、私が思うにモーターサイクルスポーツとは、機械化された現代社会の縮図であり、モーターサイクルスポーツにゾッコン惚れこんでいる人達は、現代人の価値観を究極に極めた頂点だと言っていいと思う。

 では、機械化された現代社会について考えてみよう。機械化された社会では、精密、スピード、正確という言葉が最も尊ばれていて、人々は、「どれだけ速いのか?」という問いを常に自他に発し、このことを永遠に考え続けている。まさに、機械化された現代社会に住む人々は、速さの追及こそが達成されるべき大問題であると信じ切っている訳だが、今のところそれでうまくいっているだけに過ぎず、どれだけ機械のからくりが素晴らしいからと言って、この機械化時代に問題がないというのは、ただの思い上がりである。
 また、バイク乗り達が好むのは、アルミニウム、マグネシウム、チタンなどが生み出す金属的な感触である。そしてまた、キーをひねり、セルボタンを押し、エンジンに点火すること以外に、なかなか美的満足感を見い出そうとはしない。バイク乗り達の世界観は、ホイール、サスペンション、フレーム、エンジンそのものである。
 つまり、ライダー達の世界観は、1つの場所に凝り固まってしまっている。エンジンを回すのに必要な化石燃料の枯渇とか、排気ガスによる地球温暖化などについては、意図的に目をそらし、サスペンションのイニシャルや減衰力を調整したり、インジェクションのマップを調整することに精を出し、速く走ることや気持ち良く走ることが人生の楽しみの全てになってしまっている人もいる。
 特に、ロードレースに関わっている人達は、バイクを速く走らせる為に、常に毎年新しい技術が生まれ、自分達は進歩していると考えている。大袈裟に言えば、地球というものは、新しいバイクを作る為の材料を提供する巨大な貯蔵庫であり、地球には、バイクを組み立てるのに必要な全ての部品が詰まっていると考えている。そして、ロードレースに関わる人達は、自分達の仕事が、絶対に完成されず、常に新しいアイデアやデザインがあって、常にバイクを調整したり改良したりと、そのプロセスを拡大しなければならないという強迫観念を抱いている。
 こうした、バイクにゾッコン惚れこんでいる人達は、バイクが自分にとってどれだけ重要かは積極的に考えたがるが、バイクがどれだけ自分の精神に侵入してしまったかについては、ほとんど全く考えたがらない。
 面白いことに、これはバイク乗りだけでなく、現代人全ての傾向であり、バイク乗りは単に象徴的なだけである。
 我々現代人は、遊びは機械をいじくり回すことに、仕事はモニターを見たり、何かの調整機構を調整したりといったことに占領され、時計で労働時間を規定され、他人とは電話やメールで話し、勉強には計算機やパソコンが必要で、旅行には電車やジェット機が使われ、音楽を聞くにはMP3プレイヤーといった調子で、生活様式全てが機械に取り囲まれている。
 つまり、社会人とは、主体的に仕事をする人というよりかは、単なるエンジン始動装置に成り下がってしまった感があり、機械をイジくり回すことに熱中してばかりいるのが現代人の特徴だが、その為に、人間について考える時にも、「正常に動いているか?」あるいは「いないか?」でしか判断しなくなってしまった感もある。
 そして、ロードレース関係者がバイクに対してそうであるように、現代社会は労働者に対しても、何か問題があれば、その部分は交換、または全く使えない場合には、アッセンブルで放り出してしまうようになった。(つまりはレイオフや解雇である)つまり、機械化時代とは、非常に人材浪費の激しい時代のことであり、サーキットのヒエラルキーが常に入れ替わっているのは、現代社会の究極の縮図だからである。

★語られない進歩思想
 文頭にて私は、2輪業界は将来が絶望視されていると記述したが、これは“つかみ”であり、本当はこの機械化された現代社会そのものの将来が絶望視されているのが実情である。
 おもな理由は環境が破壊されているからだが、このキッカケは200年前のイギリスの産業革命にあり、機械化時代が正に産声を上げた時でもある。
 欲を言えば、石油が50年程度で枯渇していれば、我々にも生き延びるチャンスはあったのだが、過去に生きた生物の量が多かった為に、あとしばらく化石燃料が枯渇しない為、多くの楽観論をあざ笑い、おそらく環境破壊により現代社会は崩壊することだろう。

 では、続けて悲観論を悲観せずに語ろう。
 心配しなくても、本来大昔の人達は、世界とは、秩序に向かっていくのではなく、混沌に向かっていくと考えていたので、200年より前の思考に戻せば良いだけである。しかし、私を含めて現代人は、世界は秩序に向かって進歩しているという思想にブレーン・ウォッシュ(洗脳)されてしまったので、この思想に対してなかなか抵抗できず、趣味の分野であるバイクにおいても、社会に認知させることがゴールだと短絡的に考えてしまうようだ。
 しかし、前述したように、現代人が現在の進歩思想はどれだけ素晴らしいかを考える割には、進歩思想がどれだけ我々の精神に深く根ざしたかについては、ほとんど全く語られないので、私はこれには何か訳があるのではないかと、持ち前の好奇心を働かせると共に、歴史に対する無心の探索を行ってみた。

★ベーコン
 歴史を振り返ると、4百年以上前には、どうやら地上に神は存在していたようだ。つまりは中世キリスト教の時代や、古代ギリシャ時代である。
 ところが、約4百年前に世の中で最初に神を地上から追放した人物が現われた。フランシス・ベーコンである。
 彼は、プラトンやアリストテレスといったギリシャの哲学者の言う事を、「議論好きの学問」としてあざ笑った。ベーコンにとってみれば、これらの哲学者達は、主張が派手なわりには、人類を幸福にする為の方法を何1つ行っていないという非難の対象でしかなかった。ギリシャの哲学者達は自然を観察するだけであったが、ベーコンは科学というものには、観察に“方法”が加わらなければ意味がないとした。又、世の中の現象を全て客観的に理解する事が出来れば、人類は世界を支配出来ると豪語した。

★デカルト
 ベーコンの考えに道具を与えたのが、ルネ・デカルトである。
 デカルトは世の中を解明する手掛かりは、“数字”だと、ある時ふと思いついた。彼が宇宙というものは全て“数字”で表す事が出来ると言い出した事で、混沌と堕落を繰り返すと考えられていた古代ギリシャの世界観は、非数学的であるとして否定された。ゆえに概念としてしか理解できない“神”も、非数学的であるとして地上から姿を消す事となった。

★ニュートン
 更に、世界は精巧で精密な機械であるとしたのが、アイザック・ニュートンである。
 ニュートンは全ての現象を数値で測定出来るというデカルトの用意した道具を実際に使ってみせた。ニュートンの世界観はとても無機物的であり、無色、無味、無臭な感じのする冷たいものである。ニュートンのただ単に無機物の運動を観察する行為は、現代の物質主義の元祖となった。

★ロック
 ベーコン、デカルト、ニュートン、この3人の数学的、無機物的冷たい世界観と、人間社会を結び付けたのが、ジョン・ロックである。
 つまりは啓蒙思想の幕開けであるが、ベーコンが自然から神を追放したように、ロックは人間社会から神を追放した。神は定義的には“不可知”、つまり客観的には理解できない物なので、ロックは宗教が社会の基盤になるべきではないとした。つまり、ロックはニュートンの機械的世界観を人間社会にも取り入れ、世の中を感情の通わない冷たい社会に作り変えたのである。
 そして更にロックは、社会は個人が物質的富を追求する事で進歩するとも言い出した。アリストテレスなどの古代ギリシャの哲学者は、個人の物質的富を追求する事は不可能だとしていたが、ロックはそれを否定した。個人が物質的富を追求する事には限界があるような気もするが、ロックはそれは違うと言う。彼によれば、富は貨幣に置き換える事が出来、貨幣という私有財産は無限に蓄積できるとしたからだ。しかし、そうなると貨幣を多く持つ者と、少なく持つ者が現われないか? しかし、こうした疑問もロックは問題としなかった。なぜならば、社会とは勤勉でよく働く者の為に出来ており、それらの人達が富を蓄積する事は、“善”だとしたからだ。古代ギリシャでは、社会は混沌と堕落を繰り返すとしたが、ロックはニュートンが言うように、世界は始めから秩序だっており、ベーコンが言うように、それを理解すれば人間は世界を支配出来ると考えた。なぜならば人間は元々“善”であり、物質的富を追求したところで何ら問題は無いと考えたからだ。こうして自然界は、すべての生物が有機的につながる共有地から、人類が強奪すべきトロフィーの山と化した。

★スミス
 ロックと同じく、ニュートンの機械的世界観にぞっこん惚れ込み、この世界観と経済を結び付けたのが、アダム・スミスである。
 スミスもロックのように、個々人が物質的富を追求すれば社会は進歩するが、更にその為の最も良い方法が、“自由競争”だと考えた。
 つまりは各個人が物質的富を追求すれば、社会は個人の意思とは関係なく進歩するからで、スミスはこれを“見えざる手”と表現した。スミスによれば、個人の物質的富の欲求を阻止するような政策や方法は、社会の進歩を妨げるだけであり、私利私欲を剥き出しにした人間達を放っておく事が最も良い方法だとした。人間が引力の法則を理解できても、それを支配できないように、この“見えざる手”も人間が支配できるものではないからだというのが彼の主張である。
 しかし、これでは自由放任主義的な個人の私利私欲のすすめでしかないという感をぬぐう事は出来ない。

★ダーウィン
 こうして世の中は競争社会となり、貧富の差が生まれたが、こうした人間社会を肯定するキッカケを与えたのが、チャールズ・ダーウィンである。
 ダーウィンが提唱した、自然淘汰論、適者生存の法則、弱肉強食の掟、といったものは、自然界よりも、むしろ人間社会に見られる現象であるが、これを無理やり自然界に当てはめたダーウィンの説は、当時を生きるイギリスの支配層に歓迎された。
 これ以後、競争を賛美し、世の中に気まぐれのように転がるチャンスを手にした者だけが社会の適者であるという考えが人間社会の中に広まった。
 ダーウィンは当時のコロナイゼーション(植民地拡大思想)を抱き、子孫にまで財産を残す私有財産相続制度を持ったイギリス社会を観察し、「生物が生き残るのに最も重要な事は、占有と遺伝である」と述べている。
 つまり、ダーウィンは、自説を自然観察から生み出したのではなく、時代観察から生み出したのであるが、当時のイギリス社会は、ダーウィンの説を歓迎するあまり、ダーウィン自身を観察する事を怠ってしまったようである。現在、ダーウィンの提唱した『種の起源』『進化論』を、生物学や動物学の学者だけではなく、ダーウィンの故郷であるイギリスの大英自然史博物館までもが疑問視しだしているのは、皮肉というよりも至極当然の事と言える。

★おわりのはじまり
 現代社会の基盤を作った人達は、上記のベーコン、デカルト、ニュートン、ロック、スミス、ダーウィン以外にも、彼らに影響を与えた人物や、彼らの主張を受け継いだ人物も含まれるだろう。上記にあげた人物は、あくまでも私が書店で知る事が出来るビッグネームであり、ごく一部の人達である。
 多くの人達はこれらの人物に対するイメージが変わったかもしれないが、本当の歴史というものは、その時代を生きた人物の背景や立場、精神状態などを把握しなければ見えてこないという事を、私は幼少期に学んでいた。
 従って、学校教育で教える歴史というものに対しては、私は全て懐疑的であったし、学校教育で教える歴史というものは、現代人にとって都合よく解釈されている場合が多い事を発見し、その点に対して懐疑心を働かせて歴史を観察した結果、歴史よりもむしろ現代社会がよく理解できた。
 今日、政治家や企業家といった社会に対する影響力の強い人達の発言や、自己陶酔系説教や俺TUEEEアピールがどんなに理不尽でもまかり通ってしまうのを見聞きしていると、彼らの主張がほとんどベーコン、デカルト、ニュートン、ロック、スミス、ダーウィンらの考えを引きずっている事に気付く。しかし、彼らは2〜4百年も前に生きていた人物なのだ。しかし、彼らの主張を知ると、とても現代的な響きがする事も面白い。なぜならば、目に見えない不可視的な物を一切信用しない現代の風潮はベーコンが元祖であり、成績や売上、又は生産効率等の数字が全て優先される我々の社会はデカルトの考えが元祖であり、計器やスイッチに囲まれたメタリックな質感を好む、現代人の物質偏重主義はニュートンの考えが元祖であり、貧乏人をさげすまし、金持ちに憧れる拝金主義はロックの考えが元祖であり、幼少期から勉強勉強と学歴社会を生き、とにかく他人を蹴落とす競争社会を肯定したのがダーウィンだからだ。

★がんじがらめの価値観
 教科書を含め、現代社会は自らを自己肯定する為に、歴史上の偉人達を賞賛してきたようだが、勇気ある若い学者達は、歴史が人類の自己欺瞞を書きつづった物だという事を証明する為に、彼らに対して違った目を向け始めている。
 また、上記に挙げた人達は、現代社会においては偉人視されているが、よく中身を吟味すると、彼らの主張はとても身勝手な都合の良い解釈である事が理解出来る。ところが、前述のように我々は現代社会が素晴らしいものだと自己肯定する為に、彼らの功績を過去の偉業としてほめたたえている感は否めない。しかし今後、政策立案者達が、現代社会の問題を無視できなくなれば、歴史の教科書を書き直す必要に迫られる事だろう。しかし、面白い事に現代のインテリ達も、過去については色々と批判の目を向けたがるが、自分達の抱く価値観については、それを拒んでいる。

 また、我々が受けてきた教育を振り返り考察すると、現代の教育とは空間や距離に重点が置かれ、質とか概念といった事はまるで論じてくれない事に気付く。
 我々は幼少期からテストの点数、通知表、偏差値といったもので能力を数値化する事に慣れ切ってしまっているし、競争社会を生きる前の段階として、数値化により子供達にプレッシャーをかける事が日常化している。学校においては、笑顔が素晴らしいとか、周りの人を幸せにしている、といった非数学的で捉えようのない事よりも、もっぱら数値化、あるいは形式化出来る事柄が評価の対象であり、それはテストの点数はもとより、おじぎの角度にまで至り、それをクリアする事が人生において最大の目標であるかのごとく教えられている。
 このように人間を数値化し、他人を蹴落とし、差別視する事に慣れ切っている子供達に対し、イジメや暴力を問題提起する大人達は理不尽極まりないのではなかろうか。つまりは問題のタネをまいておきながら、その本人達が問題に対して盲目となってしまっているのである。
 しかも、である。大人達が社会に出て競争化社会を生きる事が仕方がないとして、本来は心身ともに休息させるべき余暇の時間にまで、現代人は機械いじりや競争原理を取り入れてしまっている。ラップタイムを縮めることが趣味のサーキット野郎などは、本当に御苦労なことだが、モーターサイクルスポーツとは、ベーコン、デカルト、ニュートン、ロック、スミス、ダーウィンらの考えをまとめて小さな競技場に押し込んだ集大成である。
 しかし、ではサーキットの住人達が、自分達は常に進歩している素晴らしい人間だと自覚しているかと言えば、そうとは言えない部分もある。彼らは、自分達の行動が、何か社会に役立っているだろうと考えていると言うよりかは、どちらかと言うと、かなり無駄なことをしていることにはウスウス気付いてはいるが、直感的には、スピードという名の麻薬で頭がイカれているので、理屈では自分の行動を説明出来ないと感じているのではないだろうか? この直観はある意味正しいと言え、これがため、きれいごとを語るライターは余裕でDISられる。(かわいそうに)

★悪あがき
 最後に、我々がたかだかバイクについて語ることが出来るのは、時間的に言ってあとわずかであり、人類が次のステージに向かうか、あるいは自滅するかといった現在に、2輪業界の未来について語ることなど、全くもってナンセンスであり、私からの助言は、洗脳された者の幸福を、ほんのこの瞬間にだけ噛みしめるべきだというものである。

 つまり、バイクの存在など、今となっては社会にとってほんの悪あがきに過ぎず、「2輪業界の発展」という言葉自体が、環境破壊による社会の崩壊を目前にして、正に笑えないジョークに変容している。





★追伸
 えっ? 何々? 環境問題など、人類が持つ英知で解決できるって? では、フロンがオゾン層に達するには15年以上かかるので、現在の被害は15年前のフロン10%程度のみで本格的な危機はこれからと言われているオゾンホールの修復の仕方と、現状では25万年間ぶっ通しで厳重に監視保管しなければならない原子力発電所が生み出す放射性核廃棄物の処理の仕方と、1万年前は年間0.01種が現在は年間1万種のペースで絶滅しているという動物を生き返らせる方法を、お手数をおかけし大変恐縮だが、メールにて知らせて頂ければ幸いである。
 私は勉強不足で、そちらの方面にはうといのだよ。




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