Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


バイク全否定と愛国心(2) 2008年4月4日 14:27

 皆さんは学生の頃、クラスの誰かが悪さをした時に、先生が「連帯責任だ」と怒りだし、犯人が現われるまでみんなを帰さないとか、みんなで罰を受けるとか、そんな理不尽な経験をしたことはないだろうか? これと同じことなのだが、考えても見よう、アメリカが我が国に無差別爆撃や原爆を投下したことに対して、アメリカ国民全員が悪なのだろうか? 日本人が中国人を虐殺したり、無差別爆撃をしたことで、日本人全員が悪なのだろうか? 中国人がチベットを襲ったことで、中国人全員が悪なのだろうか? 日本人が韓国に対して従軍慰安婦問題を抱えることで、日本人全員が悪なのだろうか? 韓国がベトナムに対して従軍慰安婦問題があることで、韓国人全員が悪なのだろうか? 違うだろう。本当の悪は、戦争を画策したほんの一部の人達と、戦争により人間を狂気の精神状態に陥らせてしまうイデオロギーが根源的な悪だろう。

 つまり、我々が敵視すべきは、自分達以外の別の民族ではなく、単に危険なイデオロギーだけだろう。冷静に考えれば極めて明白な事実だ。

 では、同じ肌の色のアジアの仲間とも言える中国や北朝鮮や韓国を敵視し、民族的に対立し合うことで、一体誰が得をするのだろうか? よ〜く考えてみよう。よ〜く考えてみよう。
 そう、アメリカである。日本と中国と北朝鮮と韓国がいがみ合ってさえいれば、アメリカは同盟国の日本にいつまでも米軍基地を置いておけるし、日本に武器を輸出して儲けることも可能なのだ。つまり、この点について言えば、親米だろうと反米だろうと、日本を軍国主義の国にして一番都合が良いのは単にアメリカで、肉食文化の醸成と同じで、これもまたアメリカのただのマーケティング戦略の一種と言える。

★武士道との親和性
 しかし、日本が明治維新付近から軍国主義や帝国主義や植民地主義を抱くキッカケとなったのは、脱亜入欧の考えが強かったからなのかもしれないが、これまたここで簡単に書けるほど単純なものではなく、様々な思惑が複雑に絡み合って出来あがったイデオロギーが日本の右翼だと言える。

 では、以下には、私の勉強不足で間違っている点もあるかと思うが、日本の右傾化に対する私なりの雑感を語ってみよう。

 さて、小林よしのり氏などは、武士道の必要性を説いているのかもしれないが、武士とは、簡単に言えば殺人家業で、仏教の殺生禁断の精神とは真っ向から対立している。従って、殺生禁断の精神を強く意識してしまった武士は、その劣等罪意識から出家に走ってしまう。他方、殺生禁断に影響されなかったタイプの武士は、強者としての誇りを持つようになる。この誇りが発展すると、武力殺人の合理化が生まれ、強い力を持つことで戦争の抑止力になるという考えが醸成される。そして、これに今度は儒教的な掟が加わると、武士道になるのである。

 では、この武士道について考えてみよう。武士道が極まると、天皇への忠誠と自己の所属する集団中心の尚武精神が強くなってくる。つまり、天皇に対する忠誠心によって、実際の闘いの場では死に物狂いで闘うという精神が強まっていくが、これが日本人の“一生懸命”働くという精神的支柱の元祖だという考えもあるようだ。
 話を戻して、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という精神は、不純な気持ちなどをキッバリ捨てて、とにかく毎日が真剣勝負のつもりで生きろという考え方だった訳だが、こうした激しい行動論は、もちろん戦後の軍人達のお手本的な考え方になっていったようだ。右翼と武士道の親和性の高さもうなづける。そして、ある意味、日本の経済成長を支えた企業戦士の精神にも大きな影響を与えていたのかもしれない。

★近代兵器への傾倒
 明治維新以後の日本の軍人が武士道の精神を多く引き継いでいたことは、精神論の世界のストーリーだが、次には、なぜ軍人たちが近代兵器に惹かれていったのかを考えてみよう。

 日本は儒教や仏教を中国から輸入していた訳なので、昔の日本人は、中国は堂々たる仁義の国だと考えていたと思われる。しかし、その素晴らしい大国である中国に対して、1840年にイギリスがアヘン戦争を仕掛け、中国はこの戦争に負けてしまった。アヘン戦争とは、文字通り、アヘンという麻薬を使って商売をしていたイギリスの悪徳資本家が起こした戦争なので、もちろん悪いのは全部イギリスなのだが、そうは言っても、中国はその悪徳資本家に対抗する為の近代的な兵器を準備していなかったという弱点があった。日本はこのことに対して、仁義の国である中国がいとも簡単に負けてしまったのは、中国が文明的機械の進歩を無視しているからだと考えたフシがある。

 しかし、イギリスなどが日本に攻めてきた場合のことを考えると、日本の武士はその日暮らしでのんびりやってさぼっていると感じた一部の人達が、この際、経済を統制して富国をはかり、弱い国を侵略して兵器の費用に充てて対抗しようと考えた出したようだ。こうした考えが、日本の軍需産業を支えた精神的背景にあったのかもしれない。
 また、実際にフランス、オランダ、イギリス、アメリカが次々にやってくる現実に対して、天皇や朝廷側は鎖国と攘夷論(じょういろん:無礼な野蛮人を打ち払えという考え)が主なスタンスだったが、外国勢力と戦って勝つだけの軍事力などないし、もし戦って領土侵略という結果になれば、これ程の恥はないので、こうした考え方が、開国後の近代兵器への傾倒に向かっていった感がある。

 話を少し戻して、幕府の開国政策に対して、攘夷思想を持って反対していた勢力が、ついには政府を倒して王政復古を成し遂げたというのに、この尊王攘夷論を抱いた人達が、面白いことにその後には開国に走った流れを考えると、国内がバラバラになっているといった感のあった徳川幕府に対して、とにかく日本をひとつにまとめる為に、日本人全員の共通の価値観は天皇制だと考え、外国に勝とうが負けようが、とりあえずは天皇制を使って日本をまとめて王政復古し、次に本当に明治維新で日本が天皇制でまとまると、今度は外国に負けない国を作る為にも開国するという思考に変化していった感がある。

 しかし、攘夷思想というものはまだ残っているので、日本が差別されていたという報復的な感情をベースに、とりあえず弱そうな国から攻めちゃえと言った、犯罪的な考え方も生まれ始めて、これが征韓論に発展し、現在も存在する韓国や朝鮮人に対する蔑視などにつながっている。平和主義者に言わせれば、韓国や中国などに対する蔑視や差別は、ホントにバカでムダな感情だが、海外から白人がやってきたことが、こうした屈折した感情を作り出した原点に感じられる。つまり一言で言うと、日本人の隣国に対する蔑視は、そのまま白人達に対するコンプレックスの裏返しの表出である。

★利用されたストレス
 私は長いこと、日本人が『水戸黄門』に代表される予定調和的ストーリーを好む傾向があるのは、日本人の農耕民族としてのDNAが要因かと思っていたのだが、予定調和的ストーリーを好む傾向は、日本人の儒教的な考え方も影響していたのかもしれない。

 つまりは、恩情的和同思想で、意見の調整は助け合いの精神で乗りきったり、各個人がそれぞれの責任を果たせば、全体が良くなると考えたり、何事も穏便に解決して、ゴタゴタをおおやけにしないとか、そうした考えがベースにあるのかもしれない。

 しかし、こうした集団構成員の抑圧感が巨大化していくと、そこには“怨念”が醸成されやすくなる。そして、こうした大衆の不満を集団の外(つまり外国)に向けさせる政治工作に、神国の思想などを加味して、これが外国への侵略に向かって行ったようで、観念的空想論で他国家(中国や韓国)を下位に見たがる精神風土が醸成されて、更に日本は神の国だという優越感が加わり、それが右翼の精神的支柱になっていったのかもしれない。

★集票の背景
 学者ではないので、色々と思いつくままに羅列した意見で、あまりうまくまとまっていないのが歯がゆいが、もちろん日本の右翼に一番大きく影響を与えているのが、天皇を中心とした国家絶対主義と民族主義である。

 日本の右翼に特徴的なのは、天皇や国家に対する絶対的な忠誠であり、共産主義と社会主義勢力に対する絶対反対であり、理論よりも行動を重視する点であり、その行動は法を犯して暴力行為に及んでもOKという調子な点であり、軍事力の拡大強化志向などである。

 私のような平和主義者が、ただ単に声高に戦争反対や非武装中立を叫ぶのは簡単だが、いざ、日本の歴史的背景などを調べると、右翼思想とはなかなか手ごわい相手という感じがする。フツーに考えて、Yahoo!みんなの政治の評価でも、高市早苗や稲田朋美といった政治家の人気は非常に低いが、なのになぜ彼女達が選挙で当選してしまうのか? 全く不思議な感じがするが、石原慎太郎にも言えるように、こうした政治家が、なぜか日本人の民族意識を駆り立て、票を集めてしまう背景には、ほとんどの日本人が誰も神道など意識していないのに、なぜか大晦日だけはみんなで神社に初詣に出かけてしまう無意識の心理が働いているのかもしれないというのは、深読み過ぎるだろうか?

 ぶっちゃけキモい。

★神道
 正月の初詣を批判している訳ではなく、私自身が神道に無関心かと言うと、意外と(勝手な解釈で)それなりに私は神道が好きだ。では次に、神道について少しかじってみよう。

 右翼の人達が考える明治維新以後の神道とは、軍国主義に利用されただけの形骸化された神道であり、これは国家神道と呼ばれている。

 それに対して、形骸化された神道を守る意味で明治維新前後に派生したとされているのが、黒住教、天理教、金光教、大本教といった、教派神道である。この教派神道には、それぞれに教祖がいて、その教祖は神がかりを受けて自動書記を行うことで教義を作成したという、かなりオカルティーなカテゴリーである。(笑)

 こうした、国家神道や教派神道の更に前の神道、つまりは、古事記、日本書紀と言った、いわゆる記紀神話をベースにした神道が、“古の”(いにしえの)神道である古神道である。

 しかし、国家神道は言わずものがなだが、教派神道も古神道も、私はあまり興味がない。興味がないと言ったらウソになるかもしれないが、それが真実だとは思えない。記紀神話なども、当時の天皇にとって都合良く書かれたもので、偽書とまで言わないが、まー、ただのSFスペクタクル小説レベルでの関心しかない。

 私が考える日本人のアイディンティティーとは、縄文時代に生きた元日本人の、自然崇拝の精神こそが、それに相応しいものだと考えていて、これこそが神道の本質なのではないかと考えている。

★一神教
 神道について語る前に、対比として一神教について語ろう。
 一神教が信仰する神とは、唯一絶対の、この世界の全てを創造した創造主のことである。そして、聖書をベースにした宗教においては、神と人間の関係は“契約”という概念で論じられる。つまり創造主は“造った側”で、我々人間やその他の動植物は“作られた側”と言う風に別々に分けられる。そして創造主(神)は主(あるじ)、もしくは父と呼ばれ、我々“作られた側”は僕(しもべ)と呼ばれる。聖書をベースにした宗教では、神のことを主とか父と呼ぶのはその為であるが、我々は主に対しては忠実な僕であると言うのが聖書の教えである。
 つまり、我々は最初から神に対し、主と僕という契約の関係にあると言う訳だ。そして、人類は万物の霊長として位置づけられている。
 聖書をベースにする宗教が、この“万物の霊長”をどう解釈するかが、自然破壊の原因に大きく影響するが、人類が万物を育み養う、自然に対する“世話人”と言う風に考えれば、わりかし自然破壊は起こらない。ところが、今までの歴史を観察すれば、「人類は自然を自分達の都合のいいようにいじっても構わない万物の支配者だ」と言う風に、この“契約”は解釈されてきた。これが西洋の自然破壊の元凶でもある。また、聖書至上主義者が、神に対してはオメデタイ程従順だが、自然に対しては驚くほど傲慢になったりするのは、これが理由でもある。それに対して、多神教である神道をベースにした我々大和民族は、この変貌ぶりがとても異質に感じられ、一神教をハダで理解することができない。

 また、『聖書』をベースにした宗教は全て一神教であるが、一神教とは唯一絶対の1人の神様を信仰し、他は全てニセモノだと決めつける宗教である。ヨーロッパや中東の宗教がらみの戦争は、自分達の信じる神以外は認めないことから端を発している。
 そう、一神教の面白く不思議なところは、聖者との共存は許さず、悪魔との共存は許すことである。つまり、一神教では一方が神となった場合、他方は悪魔になってしまうのである。

 かつてマルクスは、「宗教は人民にとってアヘンである」と言ったそうだが、麻薬は人間の肉体を破壊し、宗教は人間の精神を破壊する。麻薬は快楽を生み出す霊薬であるが、序々に肉体を破壊する毒薬でもある。歴史を振り返ると、宗教も人類をジワジワと死に至らしめるかの如く、人間の魂を呪縛してきたようだ。これが私の考える聖書の呪いである。

★多神教
 多神教である神道は、八百万(やおろず)の神々と言うように、日の神、月の神、山の神、風の神と、世の中のあらゆる物を神様として拝んでしまう一神教から見たらまるでデタラメな信仰である。また、一神教では、いわゆる偶像崇拝、つまり目に見え、形のある物を拝む事を忌み嫌っている為、そう言った意味においても多神教はデタラメである。なぜならば、一神教においては、神は万物を創造した、とんでもなくスゲー存在なので、そのルックスも想像がつかず、明らかに我々“造られた側”とは一線を画す存在である訳だが、だからこそ“物質”を神として拝むなどというのは、とんでもない事なのである。
 ところが、多神教においては、我々“物質”は、“造られた側”ではなく、“神の体現”として論じられる。
 少しオカルティーな話になり申し訳ないが、分かりやすく例えれば、人間の体を構成しているのは細胞であるが、それをコントロールしているのは“マインド”、つまり精神である。つまり肉体はマインドを構成する物質な訳で、全ての細胞には、このマインドが宿っている。つまり、マインドの具現、もしくは体現が肉体である。これをそのまま“この世”、つまり宇宙に移写拡大すると、万物は神の意思の具現であり、神を構成する細胞みたいなものとして、神と万物は混同されるようだ。
 つまり、一神教のような、“造った側”と“造られた側”と言う明確な線引きはなく、我々人間や万物(風、水、石ころ)にも神が宿っていると言う訳である。

 昔の人達が、自然のあらゆるものに対して感謝を込めて拝むという行為があるが、我々大和民族は、古来から自然に感謝し、自然を敬い、自然を大切にしてきた。西洋人は“聖書”をタテに自然を“操作”してきた。これは明らかに“信仰の仕方”の違いである。

 一神教である聖書至上主義者は、「聖書を信仰すれば神様が救ってくれる、だから神様は一生懸命拝もう。だけど、自分達人間は万物の霊長なのだから、自然を自分の都合の良いように操作するのはいいだろう。むしろ、それは人間の義務である。だって聖書にそう書いてあるじゃん」と言う風に感じられる。

 ところが日本においては、そのような文献も教祖も存在せず、古来から万物を畏敬の念を持って崇拝し、拝んできた。日、月、山、風、石ころすらも拝んできた。このような国において自然破壊は起こることはなく、日本は世界に誇れる自然を持っていた。古代の日本人は全てのものに神が宿っていると考え、万物共同体の意識を持って暮らしていた。人間同士においても、「私にも神が宿っているし、あなたにも神が宿っている。同じ神が宿っているのだから、あなたのことは否定できない、だから小異を捨て大同を取り、仲良く暮らしていこう」と言った具合に、争いごとを好まず共同体を作ってきた。それぞれにそれぞれの役目があり、同じ神が宿っているという意味では平等であり、見かけの権利やら何かを無理に平等にするのは悪平等であると、理屈抜きで理解していた。男は男の役目、女は女の役目、人間は人間の役目をまっとうしていた。日本人は論理に弱いが、自然に従順だった。つまり、私の想像する元日本人は、とても神性が高い人達だったと思えるのである。

 右翼よりもよっぽど愛国心強くね? オレ。(笑)

★違い
 一神教と多神教の違いは、ようするに神様が万物の外側にいるか内側にいるかの違いである。
 外側に居れば、万物を造った創造主として、何かとんでもねー程スゲー奴と言ったイメージになるが、逆に何か傲慢で高慢ちきなヤローにも感じられる。まるで、後からやってきたクセに、プライベートの参加者をどかしてパドックを占拠するバカげた外車屋とか、それに媚売る雑誌屋の連中のようだ。たけーバイク扱ってるからって気取ってんじゃねーぞコラ。

 話を戻して、神様が仮に内側にいるとすれば、何か運命を共にしているような親近感を覚え、一緒に飲みに行ってしまいたくなるような感じがする。私はこんな理由から多神教信奉者である。

 えっ? 何々? どう考えても悪魔信仰しているようにしか見えないって? ああ、ルシファー拝んでるイルミナティの連中のことかい。そういやーあいつらも精神性高める為に菜食主義者なんだよな〜、でもオレは違うよ。(爆)
 あとそれから、確かにウチの実家の連中は好き勝手やって生きてる墓石屋だが、だからと言って、アーブ山口の実家はフリーメイソン(自由石工)だと言った流言は広めないで頂きたい。(笑)

★本質
 かと言って私は、私の家に神棚がある訳でもなく、神社などにもほとんど行かないし、行っても手すら合わせないことも多く、別に具体的に何かをしている訳でもない。
 信仰を実践するのに“形”から入っていくのは我が国の伝統でもあるし、それはそれで大切なことだとは思うのだが、現代っ子の私は、信仰が形骸化するのがどうしても茶番に思えるので、家に神棚を置く心境にはなれないでいる。また、幼少期からの宗教嫌いがその考えに拍車をかけている。

 一神教と多神教と、分かりやすく説明してきたが、究極的にはそんなことはどうでも良く、万物を支配する崇高な存在、それを『神』と呼ぼうが、『霊魂』と呼ぼうが、老荘思想で言う所の『道』(タオ)と呼ぼうが、そう言ったものを信じるか信じないかという部分が重要なのだと思う。ちなみに、これらを信じない人のことは、唯物論者と呼ぶらしい。 
 とにかく、私自身は自然崇拝こそが絶対正義だと考えているので、モータリゼーションとかモータースポーツとかは、100%悪だと断言できるのだ。

 それにこれは余談だが、現代的価値観で語ったとしても、その世界に住んでる奴らはほとんどクソだよ。




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