Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


自動車社会(モータリゼーション)の欺瞞性(4)
2008年5月17日 11:20

★自動車に対する愛着
 私は幼少期からクルマが大好きで、実際に16歳で整備士になったりもした訳だが、子供の頃から自動車雑誌などを熟読し、自動車に対して深い愛情を注いできた。しかし、大人になってから、実際に自動車社会に参加すると、自動車社会には非常に暗い側面があることを知り、自動車社会など、実は全く人類の幸福に貢献していないどころか、人類の自滅を後押ししているどうしょうもない機械だということが次第に理解されるようになってきた。

 しかし、多くの人達は、今だに自動車に対して深い愛情を注いでいて、中には、自分の食べるものまで節約して全財産をクルマに投入してしまう人もいたりする。この異常なまでの愛情のベースは何なのか、ここではそれについて考えてみよう。

 大昔の人達は、地域の中で共同体を作り、その中で周りの人達と絆を結ぶことで安全を確保していた。つまり、その土地にしっかりと立っていることが、“安全”の概念だった。
 しかし、フロンティアスピリッツ(開拓精神)を持ったアメリカ人達は、この安定の概念とは別に、今度は“可動性”こそが安全の概念だと考え出した。
 そして、自動車を愛する人達の、“可動性”への愛着は、現在ではアメリカ人や日本人などの区別もなく、ドライバーの共通の考え方になっている。

 ちなみに、自動車を英語で表現すると、“automobile”だが、これは、“automatic”(自動)や“autonomous”(自立)と、“mobile”(可動)の合成語であり、啓蒙主義思想の二つの特徴をそのまま集約している。そして、自動車を運転している人の多くは、時間的、空間的制約を克服する喜びを得ている。
 また、現代社会においては、自動車を所有することは、一種の通過儀礼にもなっている。自動車を所有する人は、自動車を所有することで、自分が独立した個性的な人間だと認識するようになり、可動性を重視した現代社会においては、自動車を所有することが、自由と新しいタイプの安全の所有を意味するようにもなっている。つまり、自動車とは、可動性という価値観を高めた現代社会に入会する為の一種の会員証という訳だ。そして、実際に“会員証”を手にした人は、「今の世の中、クルマくらいは持たないと」と、現代社会に仲間入りした自分を安心させることになる。

 そして、現代人はひとつ場所に凝り固まるよりも、可動性こそが安全だと錯覚するようになってしまったが、しかしその一方で、その弊害として、自動車を運転する人達は、すばしっこく、あちこちに出かけることで、自然のリズムを忘却してしまった。
 人間には元々、地球の自転や公転周期、あるいは月の周期と同調した生物時計が体内に備わっている。女性の月経とは、まさに月の周期のことだ。しかし、こうした原始の時代から体内に備わった強固とも言える我々と自然のリズムは、いそがしく動き回ることを安全と考える自動車社会により破壊されようとしている。破壊は大袈裟だとしても、妨害していることは確かだ。

 また、自動車社会は、現代社会は進歩するものだという考え方とぴったりマッチもしている。現代人が抱く価値観の多くは、進歩思想と直結しているが、自動車社会が約束した可動性と共に、とにかく前に突き進めという概念は、人類が時間的制約を克服することが大事だと我々に訴えかけてくる。
 しかし、元々の人類には、時間という概念は、そもそも体内に織り込まれていたものだったというのに、現代人は、時間を完全に克服することこそが安全だという考えに縛られるようになってしまった。もちろん、こうした考え方の起源は、土地を追われた西洋人の考えが元になっている。彼らは、土地を追われることで、自然とのリズムが隔絶され、土地にしっかり立ち、自然のリズムと同調することが安全という概念を捨て、可動性こそが新しいタイプの安全の概念であり、時間を克服することが目標だと考えるに至った。

 しかし、体内時計と自動車社会の目指す可動性信仰とのギャップに対して、多くの人達が無意識の世界で困惑し、表層的なエネルギー危機、環境問題、地球温暖化問題、交通事故の問題等がクローズアップされるにつれ、人類は自動車社会に対して抵抗を示すようにもなってきている。

★先進的なデンマーク

●自転車天国のコペンハーゲン
福祉国家デンマークでは収入の半分は税金で徴収され、また自家用車には高額な課税が課せられるため、市民の足は市の無料自転車。至るところに自転車スタンドが配置され乗り捨てが自由にできるようになっています。環境に悪い自動車の通行は大きく制限され、誰も自動車などに興味をもっていません。エコロジー国家先進国では自動車に乗る人はいわば犯罪者のようなものなのです。よって町はカラフルな自転車がいっぱい。労働時間制限の厳しいこの国では夕方になると自転車ラッシュになるのです。やたらと車のモデルチェンジをして消費を煽る日本などは足元にも及びません。

海外移住情報 デンマーク現地事情編より


 何もかもデンマークは進んでいる。上記のように、デンマーク人は自動車になど興味を持っていないようだ。

 我が国について考えてみよう。我が国は、相変わらず道路が必要だとか必要でないとか、道路利権で国会がもめているといういわば環境問題後進国である。
 普通に考えて、今後、少子高齢化が進むことが分かっているのだから、自動車がなくても生きていける社会を目指すべきであり、歩いて全て買い物出来る街づくりと、街と街との間の移動は、公共交通機関で賄うべく、地方においては収支に影響されない国営のローカル電車を復活させるべきであると私は思う。

 しかし、小泉純一郎の「官から民へ」というワンフレーズ・ポリティクスにすっかりだまされた国民が多い為、国営企業を復活させるなどバカげていると考える人も多いだろう。しかし、民営化路線とは、何度も言うようにネオリベラリズム(新自由主義)の政策のひとつであり、単に外資が我が国の財産を奪う為の方便に過ぎない。

 私は、日本は自動車社会に終止符を打ち、老人が暮らしやすい社会に早急に政策転換すべきだと思う。そして、その為にも、地方の赤字ローカル線などに損失補てんするべきだと思う。ちなみに、地方民鉄の赤字額はせいぜい150億円程度であり。3兆円規模の道路特定財源に比べれば、ほとんど微々たるものである。また、地下鉄の利用者が増えれば、道路が痛まなくて済むと、道路特定財源の一部はすでに地下鉄整備にも使われているのである。

 今だ民営化が善だと考えている頑迷な方の中には、地方のローカル線を国営で復活させるなど、前時代的で、共産主義っぽいと違和感を感じるかもしれないが、本来鉄道は、公園や公衆トイレと同じで、国民共有のインフラ整備の一種であり、社会資本だと言える。そして、それを民営化したのは、そもそもの間違いなのである。
 私自身、この先歳を取っていく訳だが、地方のローカル線が復活することにより、今後一層増えていく老人が住みやすい街が増え、すでに自動車に若者が乗らなくなっているというのに、まだ自動車社会の存続の為に道路を作るとか作らないとか論議している国会の空転ぶりにはあきれる始末だが、利権を主張する道路族の人達に、そのままスライドして国営の鉄道事業を与えてしまう方が、悪の根絶よりもむしろ人類の延命になるのではないかとまで考えてしまう。

 自動車産業は、我が国の基幹産業になってしまったので、なかなか厳しい理想論を語っていることは重々承知だが、神風特攻隊などに戦時中苦しめられたおかげで、戦後のアメリカは我が国の飛行機産業は徹底的に解体してくれたが、出来れば自動車産業の芽も摘んでおいて頂きたかったとすら言いたい心境だが、現在の私の本音は、日本の自動車メーカーには、100%の法人税をかけることで、ドバイなどのタックスフリーの国に移転してもらって、輸入車には法外な関税をかけて、我が国も早急にデンマークのような国にしなければ、環境問題も地球温暖化問題も解決しないというくらい、実は人類は切羽詰まったところまで来ているという認識が、政策立案者達には全然足りないようだが、それより以前に、もっと個人レベルにて、アクセルを踏むことイコール、“人類全員『負け組』への道”加速という認識を持ち、自動車社会との決別を大衆レベルの声にしていく必要性があると思われ、元々は自動車が大好きだったという私がこんな訴えをしてみる気になった。




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