Erv's Letters index | Text by Erv Yamaguchi |
新陳代謝 |
2009年2月13日 12:09 |
突然だが、皆さんは汗をかくことは好きだろうか? 私はスポーツが苦手で、これまでの人生でスポーツをしたことがほとんどなく、しいて言えば、モーターサイクルスポーツが唯一私が行ったスポーツだったのだが、残念ながら、私はバイクに乗っても、すぐに転倒してしまった為に、汗をかくヒマがなかった。 しかし、私は幼少期から父親に連れられて、よくサウナに行っていたのだが、このトシになってもサウナは大好きで、現在も週に4日くらいはサウナに行っている。 そう、私はサウナに入って汗をかいた後、水風呂にドボンとつかり、その後、フツーのお風呂に入って、何だか皮膚の感覚が麻痺した状態で湯ぶねでボーッとするのが大好きである。 そして、サウナに行った日は、お肌がスベスベになり、就寝時には、フトンのシーツの肌ざわりもよくなって安眠にも役立っている。 一説によると、スポーツしたりサウナに入ったりして汗を流した後が気持ちが良いのは、体内からエンドルフィンという、麻薬に似た物質が出るからではないかと言われている。そして、このエンドルフィンというホルモンには抗鬱作用があるようで、それが気分の良さにつながるのかもしれない。 また、汗を流した後でお肌がスベスベになるのは、毛根につまった毛穴の汚れを、汗が押し出してくれるからなのかもしれないが、汗を流すことは、体内の毒素を汗と共に体の外に出すことで、デトックス(解毒)効果もあるのではないだろうか。 と、まずは私自身の経験談から、身体の新陳代謝の話をプロローグとしてみたが、以下には、引き続き新陳代謝の話を進めることにしよう。 ★貧困なる精神 昨年末から今年の初めにかけては、テレビなどのマスメディアでは、大企業バーサス派遣切りにあった人達といった、強者と弱者の対立の様子が報じられることが多かったが、共産党などは、大企業は莫大な金額の内部留保金を溜め込んでおり、たったの0.2%の内部留保金を切り崩せば、派遣社員を解雇する必要などないので、大企業は非情だと訴えていた。 このように、自分達さえ良ければそれで良いと、弱者を切り捨て、内部留保金の確保を優先する大企業の姿勢は、例えそれで企業の規模が大きく、“勝ち組”になれたとしても、人間としてどうよということで、金はあっても、“貧困なる精神”と揶揄されている。 ところで、テレビを見ていた時に気になったことで、おめでたい調子のコメンテーターが、企業が内部留保金を使わず派遣を切り捨てるのは、内部留保をためろという株主の要求に応えたからで、こうした貧困なる精神を持った大企業を作ったのは株主のせいで、株主が悪いのだと訴えていた。 私はこれに対して異論があったので、以下にそれについて語ってみよう。 ★株主重視の経営 投資家の立場で企業のファンダメンタルズを分析した場合、ただ現金を持っているだけの企業の経営者は、株主軽視の経営をしているというレッテルの対象となる。 投資家というのは、その企業の株を買う、つまり、その企業に自分の金を預けることで、金を受け取った企業は、その金を更に増やすべく働いてくれと考えている。また、マーケット(株式市場)で投資家からお金を集め、その金で事業を営んでいる経営者は、投資家から集めた金で更にお金を稼ぐべく、そのお金を運用しなければならない。もし、そのお金を運用せず、そのまま放っておくのであれば、株主軽視だし、しっかり運用して利益を出し、株主に還元すれば、株主重視の経営をしていることになる。 つまり、現金を何も運用せずにそのまま放っておかれたら、株主はカンカンに怒るだけで、前述したコメンテーターの、「内部留保金を貯めるよう要求したのは株主のせいだ」という指摘は、全くピントがズレている。 では、企業の経営者が現金を余らせていた場合、通常どうすればいいのだろうか? 例えば、その企業が成長過程にあるのであれば、更に儲けるべく、新しい工場を建設したり、新製品の研究開発に資金を投じて、新しい工場がうまく稼働したり、新製品を販売してそれが売れたりすれば、更に売上が上昇することで、その企業の内在価値が上昇し、その企業の内在価値に見合った株価がつくことで、それまでの株主は、キャピタルゲイン(値上がり益)を得ることが出来る。 では、企業がすでに成長期を終え、成熟期に入ってしまっていた場合はどうすれば良いのだろうか? その場合には、余った現金を直接配当金として株主に差し上げてしまうという方法がある。 しかし、株価が上昇するような、企業の内在価値の上昇の為のネタがない場合には、配当金を差し出すのもひとつの方法だが、キャピタルゲインにも、インカムゲイン(配当金)にも、どちらにも税金がかかる為に、配当金は、株主にとって二重課税となり、株主に不利に働いてしまう。 では、もう新しい工場を建てる余地もなく、新製品も売れず、投資先が何もないという成熟した企業が現金を余らせていた場合は、一体どうすれば良いのだろうか? 最も優れている方法は、自社株買いである。 ★自社株買い 企業が現金を余らせ、それでいて企業の内在価値を上昇させるような投資先が見つからない場合、配当金を出して株主に報いるのもいいが、別の方法として、余った現金で自社の株を買って消却してしまうという方法がある。 そして、実際に自社株を買い取って、発行している株式数を減じてしまえば、一株当たり利益が上昇し、ROE(リターン・オン・エクイティ:株主資本利益率)の数値はアッと言う間に好転し、株価上昇の材料となる。 そして、実際に株価が上昇すれば、株主はキャピタルゲインに預かることが出来、株を売らない限りは税金はかからないので、効率的に持ち株を福利成長させていくことが出来る。 これはアメリカのマーケットの常識だが、なぜ、アメリカでは常識かと言えば、アメリカの株主総会では、“モノ言う株主”が多く存在するからで、株主軽視の経営をする経営者は、アッと言う間に解任されてしまうからである。 しかし、日本では、いわゆる“シャンシャン総会”と言って、これといった質疑応答もなく、アッという間に株主総会が終わってしまうことも多く、株主の株式投資に対する知識も低かったようで、株主重視どころか、かなり強烈に株主が軽視されてきたのが実情であり、日本の大企業が莫大な内部留保金を貯め込み、トヨタなどは自分の金で銀行が作れるほどにまでなってしまったのは、日本の悪しき慣習だと言える。 ★株主軽視の極値 アメリカの常識と違った以前の日本の常識では、自社株買いとは正反対の、株主軽視の極値とも言える処置が実施されていた。それが“株の持合い”である。 アメリカの常識では、自社が買収されないようにする為には、株主重視の経営をして、株価を釣り上げておく必要があった。極めて健全なる精神である。 しかし、日本の企業の場合、特に銀行などは、他人に買収されないようにする為にとった方法が、“株の持合い”だが、これ程株主をバカにしたものはない。 とっても分かりやすく説明しよう。たとえばA社とB社という会社があり、A社もB社も株価が1000円で、株式を10万株発行していたとしよう。つまり時価総額が1億円(会社のお値段は1億円)ということだ。そこで、A社もB社も、お互いの株を買って“持ち合い”する為に、更に10万株を発行して、ホントにお互いの株を持ち合ったとしよう。つまりA社もB社も1億円使って、お互いの株を買ったのである。これで他人から買収される心配はなくなって、本人達はメデタシメデタシだが、A社とB社の間には、1円も金の移動がないのである。なのに、株式は倍発行されてしまったので、一株当たり利益は文字通り半減し、ROEも半減し、株価上昇の材料になるどころか、株価下落の材料にしかならない。つまり株主軽視だ。 しかし、株主などよりも、青い目からの買収を恐れていた島国根性が、この国のこれまでの実態だったという証明が、この“株の持ち合い”というストーリーによく表われている。 ★市場原理の利点 話を理想論に戻そう。 さて、小学生に「マーケット(株式市場)とは何か?」と聞かれれば、単純に言って、マーケットとは、投資家からお金を集めて、それを株券に引き換える場所といった説明になる。 こう聞くと、マーケットというのは、永遠にお金を株券に引き換え、この世に株券というものは、ひたすら増加していくといったイメージになる。 しかし、それは新興国のお話であり、アメリカのように、すでに成長が止まり、成熟産業の方が多くなってきたという先進国になると、前述のように、株主重視のあまり自社株買いをする企業が増えることで、株券を発行するよりも、株券を消却する方が多くなり、発行している株券の量は減少するという現象が起き、マーケットというのは、株券を発行する場所というよりも、株券を消却する場所になってしまう訳だが、アメリカのマーケットは、すでにそうした場所になっている。 そして、成熟産業が、まだ成長産業だった時に株を買った株主は、自分が買った企業の成長が止まり、その企業が自社株買いをすることで株価を上昇させると、株主は、儲けたお金の一部を、今度は、別のベンチャー企業に投資しても良いという気分になる。こうして、成長産業の成長が止まってやがて成熟産業となっても、その企業の株主が、今度は儲けたお金でベンチャーに投資するので、アメリカのマーケットにおいては、スムーズにお金がベンチャーに回り、産業構造は成熟産業からベンチャー産業へうまく新陳代謝することが出来る。 私は昨年、市場原理主義をさんざん批判してきたが、もしマーケット(市場)を弁護するとすれば、こうした新陳代謝は歓迎するべきだということで、我が国においては、有名な大企業がまったく株主軽視で、金がベンチャーに回ることもなく、新しい産業の育成も滞るのであれば、今後、派遣切りにあった人達の次の就職先のメドも全く立たないということになる。 ★1990年代のアメリカ 歴史に対する無心の探索を行うことで、具体的に考えてみよう。 1990年代のアメリカは、現在の輸出を主とする日本の大企業と同じく、大きなダウンサイジングを敢行していた。しかし、このダウンサイジングは、現在の日本と同様、解雇通知を受け取った人達の心に荒廃と痛みをもたらしたが、同時に、1700万人もの人々を、高成長で刺激に富む、生産性の高い産業へと移動させることに成功した。 ヨーロッパと比較してみよう。ヨーロッパも同時期に、高い失業率に悩んでいた。そして、ヨーロッパの企業もアメリカ同様ダウンサイジングを敢行していた。しかし、ヨーロッパは、その隙間を埋める小さな企業が不足しており、ヨーロッパでは、1980年末よりも、1999年末の方が雇用者数が減っていた。ヨーロッパの人達は、アメリカよりも貯蓄率が高く、アメリカ人よりも高い教育を受けているというのに。 こうしたヒストリーは、しかるべき注目を浴びていないが、企業が現金を余らせ、何も運用せずに内部留保金としてただ蓄えているのは、株主軽視の経営なので、株主は儲からず、株主が儲からなければ、ベンチャーに金も流れず、ベンチャーが育たなければ、解雇された人達の新しい就職先も誕生せず、長い目で見れば、みんな死ぬ。 テレビなどで、市場原理主義を批判するのはおおいに歓迎するが、「企業は株主のものなどではなく、みんなのものだ」と言うことで、“日本的経営の方が素晴らしい論”を展開するエセコメンテーターの言うことはマユツバであり、日本の企業の問題は、企業がみんなのものという概念から、株主のものという概念に移行したことではなく、株主の勉強不足が原因だと私には思えてならない。別に、企業を株主のものにしたくないのであれば、田宮模型のように、絶対に上場せず、例え採算があわなくても、数千万円かけて戦車の取材の為に戦地に行ってしまうような企業姿勢でもよい訳なので、上場するからには、株主重視の経営をすることは、経営者にとっての至上命題であり、投資家は、経営者が株主の方を向いているのか向いていないのかで投資先をセレクトすることが、産業構造の新陳代謝には絶対に必要だと私は考えている。 |
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