Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


ノー・モア・ウォー
2009年7月3日 11:58

 右翼ばあさん何を言おうが、古くは中曽根、最近では小泉・竹中、また、知事レベルでは石原慎太郎と橋下徹が、我が国に弱者切り捨てのネオリベラリズム(新自由主義)を注入したことで、この国の格差は拡大し、貧困問題が表面化した。

 しかし、歴史に対する無心の探索を行うと、一握りの資本家や特権階級があぐらをかき、政治は腐敗し、庶民が貧困に陥っているという時代も過去にあった。それが戦前の昭和だが、この政治家の腐敗ぶりや、資本家の横暴に対して憤った民間右翼や青年将校達は、“一人一殺”“一殺多生”のロジックを持って、政財界のトップを無差別的に暗殺することで、次期後継者に対して恐怖心を与え、世の中を変革しようと企んだ。また、彼らは、要人暗殺に失敗した場合には、「ヤクザは指をつめるが右翼はハラを斬る」という格言に従い、いさぎよく自決するのも特徴だった。

 もちろん、こうしたやり方に対して私は反対だし、ストレートに間違ったやり方だと思うし、不公平で理不尽な格差社会を、天皇を絶対とした国家社会主義にて正そうという彼らの思想も受け入れがたいが、貧しい人達に対する想いや、特権階級に対する怒りの念に対しては、シンパシーを感じる部分もある。

 しかし、この国家社会主義を目指した戦前右翼は、かの有名な2・26事件の後は、むしろ軍閥、財閥、政治家によって、その思想は巧妙にすり替えられ、結果的に破滅の道を歩んだ。

★チキンホーク
 思想ややり方は間違っていたものの、格差社会を正そうとした戦前右翼に対して、戦後右翼は、親米反共路線を歩んだ。もちろん、戦後にも、戦前右翼のように、経団連を襲ってしまうような気合が入った人達もいたが、こちらは“新右翼”とか、“民族派”と呼ばれる一部の人達で、世間一般ではあまり注目されていないような気がする。

 そして、我々がフツーにイメージする右翼とは、以前は共産主義に絶対反対する勢力というイメージだったが、ソ連崩壊後は、ナショナリズム高揚が強くなったようで、特に最近現れた、ネットウヨという人達のネットでの活動では、攻撃の対象が中国人や朝鮮人(韓国人)などに向けられ、また、在日中国人や在日韓国人などに対しても、極端な嫌悪感を示し、こうした人達を廃絶することが目標といったイメージが強くなっている。

 しかし、ネットウヨと呼ばれる人達は、実際には、リアルな世界では単にフツーの人で、むしろ日頃の生活では在日の人達ともうまくやっていて、中国料理だってヤキニクだって食べるような人達で、単にネット上でパーチャルに左翼を攻撃するのが趣味の人達が多いようで、また、フツーに街宣車で活動する街でよく見かける右翼も、戦前右翼とは思想的には違っているし、単に右翼のファッションが好きなコスプレイヤーという感じで、こうした戦後右翼は、気合の入った戦前右翼に比べると、どうしてもチキンホーク(ヘタレ右翼)という感がぬぐえない。

★無意味なナショナリズム
 本質的な話ではないので、あまり好きではない話題だが、暇つぶしにナショナリズムについて語ってみよう。

 ネットウヨの方達は、日本にミサイルを向けたりする中国や北朝鮮脅威論を唱えている訳だが、こんな国は信用できないので、日本も武力で対抗すべきだと考えている。「武器を持っている相手に丸腰で外交など出来るか」という訳だ。

 そして、在日中国人や在日朝鮮人などに参政権や選挙権など与えたら、日本はその内に中国や朝鮮にのっとられてしまい、日本人のアイディンティティーなどなくなってしまうと考え、とにかく中国や北朝鮮に対して脅え、武器を持たないと夜も眠れないような有り様になっている。そして、実際に武器を持った時の彼らのスタンスは、「いつでもかかってこい!」だ。こうした精神構造、つまり、他の国や民族を憎まなければ自分の国への愛を確認できないというタイプの右翼は、心が屈折し過ぎていると思われ、ハッキリ言えば、一種の精神障害にも感じられる。

 また、私は日本人のアイディンティティーは、縄文時代の自然崇拝にあると考えているので、弥生時代に朝鮮半島から騎馬民族が入ってきて、多くの元日本人が北海道や沖縄などに追いやられ、本州に残った人達も、朝鮮から渡ってきた騎馬民族の人達と長い時間をかけて混血していったのが現在の日本人なので、厳密に言えば、すでに我が国のアイディンティティーは、弥生時代にだいぶ崩壊し、すでに日本という国は、朝鮮から渡ってきた人達に支配され、私やネットウヨの人達も、むしろ朝鮮人と元日本人の混血でしかない、つまり、“ごった煮”の状態なので、今更また朝鮮人の人達に占領されることを、アイヌとかの人でもないのにガタガタ言うのも、時代錯誤な気がする。(爆)

 また、身も蓋もない話を更にすれば、「日本」は、なぜ「日本」と呼ぶのかだが、『日出処』(ひいずるところ)の日本は、中華帝国から見て、太陽が昇る東方を意味する地理的なもので、『日出処』(ひいずるところ)は、元々「朝」の国、つまり朝鮮を指すものだった。そして、百済(くだら)人は、日出処の朝鮮よりももっと東に位置するヤマトなので、日本のことを『日の本(ひのもと)のヤマト』と呼び、逆説的には、『日出処』(ひいずるところ)の逆に、中華帝国は、『日没処(ひいるところ)』、つまり『暮れ』=『呉(くれ)』の国ということになる。

 つまり、日本という名称は、古代朝鮮の百済が名付け親だった訳だが、朝鮮をとにかく嫌うネットウヨの人達が卒倒しそうなエピソードだ。(笑)

 このように、軽く歴史に触れただけでも、純粋なナショナリズムなどないことが分かり、これを読むあたなが純粋なアイヌ人とかでない限りは、私もあなたにも、すでに朝鮮人の血が流れており、日本人と朝鮮人が仲が悪くなって喜ぶのは、何度も言うように、日本や韓国に軍事基地を置いたり武器を売りつけることが出来る、本来この地域に全く関係ないアメリカだと言える。

 もし、これを読むネットウヨの人達が、こうしたしたたかなアメリカに対して憤慨してくれるのであれば、むしろ、アメリカ大陸というのは、元々インディアン、つまりアジア人が住んでいたので、「後から入ってきた白人達は、そこはアジアなのでとっとと出て行け」と、もっとグローバルな民族主義を発揮して、アメリカの白人達をビビらせてもらいたいと思う。(もちろんこれは一流の皮肉だ)

★為政者達の無駄な予算配分
 石原や橋下や東国原などは、徴兵制を導入すべきだなどと発言し、日本人の尚武精神を高揚させ、ネットウヨの人達はいわずものがなだが、都市部に多いB層の人達に対して、ナショナリズムをベースにした支持を集めるのが得意である。

 しかし、私のような人間がその様子を傍観すると、ネットウヨの人達は、韓国などを極端に忌み嫌っているというのに、仮に日本が徴兵制を採用したら、それでは韓国と同じアイディンティティーになってしまうというのが、非常に愉快だ。

 しかし、我が国は、世界で唯一の被爆国だし、かの有名な憲法九条を持っているので、平和を表明することに独自のアイディンティティーを持つことの方が、よっぽど世界に誇れるアイディンティティーになると私などは考えるのだが、こうした非武装中立論者の私のような人間は、右派の人達は“バカサヨ”と言って蔑んでみているようだ。

 これを読む人の中にも、産経新聞が大好きだという、筋金入りの保守の方も、ひょっとしたらいるかもしれないが、正直に告白すれば、私も、いくらきれいごと的な理想論を持っていたとしても、世の中にはどうしょうもないバカキチガイ政治家とかも存在するので、過剰でない範囲での防衛は必要だと考えている。

 しかし、例えばミサイルとか戦車とかの装備は、実際に使われる可能性が極端に低いと言うのに、それに対する軍事予算は、兆の単位になってしまったりするので、そんなものに税金を使うのであれば、「おにぎりが食べたかった」と言って餓死する人や、年間に3万人以上の自殺する人達の自殺を食い止める政策とか、医療や福祉にお金を使って、それこそ、“たった今”死んでいくような人に対する救済処置にお金を使うべきで、仮に、ミサイルなどをまず撃ち込んで、その後に上陸して日本を占領しようという時代錯誤なコロナイゼーション(植民地拡大思想)を持った国が、本当にミサイルをガーンと日本に撃ち込んだら、その時は多数の日本人が死ぬかもしれないが、その後上陸してきた人達に対して、ベトナム戦争時のような、“白兵戦”にて、右翼の方達に活躍して頂いた方が、直接人を殺すのが大好きな右翼の方達もありがたいのではないだろうか?(もちろん、これも一流の皮肉だ)

 また、私の考える理想的な国のお金の配分としては、ミサイルとか戦車とか、信じられないくらい高額なクセに、ほとんど使われず時間が経つと廃棄してしまい、廃棄されるまでの間も、これまた信じられないくらいエネルギーを消費して沢山CO2を吐き出すような武器になどお金は一切かけず、そのお金で、北朝鮮とかに対しては、極端な太陽政策を施して、日本から食糧などの生活必需品だけでなく、テレビや娯楽などもガンガン持ち込んで、日本人がガンガン北朝鮮に渡航して、彼らの懐深く入り込んでいった方が、拉致被害者も早く発見できるのではないかとも思ってしまう。

 しかし、こうした考えに対しては、保守派の人達は、バカげた空論だというかもしれないが、5兆円もの金をかけて、いつ攻めてくるかも分からない人達相手に国を守ってくれるのも大変ありがたいものの、そのお金と自衛隊員の人達を使って、孤独死しそうなお年寄りの家に対して、一軒一軒訪問活動などをした方が、“国民を見殺しにしない国”として、よほど愛国的な行動だと言えるのではないかと私には思われるが、こうした考え方は、マッチョイズムを持った右派の人達には馴染めないようで、彼らはとにかく他の国や民族を憎むことで、自分の国への愛を確認しなければ気が済まないようだ。

 そして、ネットウヨが“閣下”と呼ぶ石原慎太郎などは、府中市にある障害者施設を見学した後の記者会見にて語った、「あの人達に人格あるのかね」の発言でも分かるように、筋金入りの社会ダーウィニストらしく、弱者に想いをはせるよりかは、とにかく強いものに憧れるという精神構造と共に、「日の丸」掲揚、国歌斉唱の実施の方が重要だと考え、東京都の弱者救済処置よりかは、教職員達が「日の丸」掲揚、国歌斉唱をしない際の処分などに無駄な労力をさいている。

★差別的意識
 石原をレイシスト(差別主義者)だと言うのは簡単だが、こうした人が酒場の酔っ払いのオヤジならともかく、差別する対象から巻き上げた税金にて、弱者切り捨てのネオコンネオリベ政策を推し進めているところに大きな問題がある。

 しかし、石原が税金を自由に使って文字通り都政を私物化しているのも、石原に対する支持者がいるからで、石原の選民意識や中国や朝鮮に対する蔑視が、石原を支持する人の心の中にもあるのが問題だと考えられる。

 そして、私なりに色々と調べてみたが、前述したように、日本という国は、弥生時代以降、朝鮮半島から渡ってきた人達と、元々いた元日本人の混血民族なので、今更朝鮮人を蔑視するのも変な話だし、『尊皇』という文字が大好きな右翼の方には申し訳ないが、『続日本記』にて、桓武天皇は、「百済王らは朕が外戚なり」と、わざわざ天皇の母方が百済(くだら)系の人であることも記している。

 しかし、騎馬民族の人達の到来や、百済による支配、百済と日本の交流、また、百済滅亡後の日本における百済人の同一化と権威の拡大、百済の旧敵国の新羅への蔑視、そんなものが混じり合って、日本民族の朝鮮に対する蔑視が出来あがったという識者の方もいるようだ。

★明治維新前後
 別の側面を考える意味でも、時代をもう少し最近にしてみよう。

 江戸時代以前の日本の社会のシステムは、長い間村落共同体がベースだったが、村落共同体においては、意見の調整は助け合いの精神ではかるのが普通である。しかし、この一見微笑ましい精神は、逆説的には、他の思想理論に対する排他主義にも通じる危険性がある。

 また、村落共同体社会では、それぞれ各個人個人が自分の責任をまっとうすれば、全体も次第に良くなっていくと考えられている。しかし、これも度が過ぎていくと、各個人は不平不満を持ってはいけないというイキフン(雰囲気)になり、個人の欲望を抑圧していくことにもなる。

 また、村落共同体社会では、何事も穏便に済ませようと、内輪のごたごたをおおやけにはしない方が良いとするのも特徴であり、こうした慣習が常態化すると、法律の御威光が後退し、逆に私的刑罰権が拡大していく。

 こうして、長いこと村落共同体社会を運営していくと、その集団の構成員の抑圧感が増幅していく訳だが、それが怨念になっていきやすくなる。

 そして、そんな時にうまいタイミングで開国し、外国の異文化が流入してきたのが明治維新な訳だが、時の為政者達は、この村落共同体における不平不満を外部に向けさせる政治工作を使い出したフシがある。

 そしてその結果、国民の中に、観念的空想論による他の国を下位に見たくなる精神風土が醸成されたのではないかと見る識者もいて、圧倒的な武力をもっていた黒船を見て、このアングロサクソン達に打ち勝つ為にも、まずは資源を確保する必要があると、近隣アジアを植民地化しようと考えだすと同時に、それらの国を下位に見るような風潮が利用もされたようだ。

★情けないナショナリズム
 調べてみると、学者や識者の見解は色々あって面白いが、多くの日本人が、韓国人や中国人を蔑視するという風潮は、最近出来あがったものではなく、それなりに長い歴史があり、結構根深い問題だと言える。

 石原慎太郎や、自民党の保守派の政治家などは、そうした日本人の病巣をうまく利用して票を集める政治家だと言えるが、右派的思想そのもの自体が、人類の発展段階として非常に幼稚に感じられるし、弱者に想いをはせるよりかは、強者に憧れるというのは、明治維新の時にやってきた黒船の圧倒的な力や、第二次大戦での敗戦という経験など、ズバリ、アングロサクソンに対する根強いコンプレックスの裏返しでしかないということもよく分かる。

 つまり、日本人は、実際にはアジアの国々に対して、武力を使って攻めていったこともある訳だがら、そうした国々の人達の痛みを、ヒロシマ・ナガサキやシベリア抑留などの我が身の悲惨さに照らしてイメージし、自分達が痛めつけた国の人達へ想いを強めても良さそうなものなのだが、どちらかと言うと、戦争がもたらした被害者意識により、アメリカという強国に対するコンプレックスから抜け出せず、逆説的にはその鬱屈した思いが近隣のアジアの国々に吐き出されているようにしか見えない。

 そう、日本人というのは、自分より上位の者、つまりアメリカに対しては被虐的でありながら、自分より下位に見ている国に対しては加虐的で横柄な態度を恥じないという傾向があり、こうしたダブルスタンダードというか、両義的なスタンスを強めることで、自民族中心の“居直り”的なスタンスが強くなって、結局アメリカには逆らえないというような、単なる従属的ナショナリズムに終始しているようにしか見えず、これが新たな展望など見出すことができない我々の世代にとってのイライラにつながっている。

★プロパガンダ
 一言で言って、他民族に対するコンプレックスや蔑視は、バカで無駄な感情でしかないとつくづく思われるが、為政者達は、「国を愛せ」などと言うくらいなら、その国に住んでいる人達が全員幸せになれるよう、滅私奉公的に駆けずり回って弱者救済に励むのがスジだと思うし、それが公人なのだと思うのだが、現実には、自民党の改革派は大企業と共謀し、アメリカをバックにつけることで、一部の金持ちが肥え太る政策を推進し、また、それがあたかも正しいことかのように、プロパガンダを利用して国民を騙し続けている。

★ベースにある武士道
 話を右翼に戻そう。

 さて、私は絶対平和主義者で、人を殺すことは良くないことだと考えている。あなたはどうだろうか?

 ちなみに、武力を持った人達は、丸腰の私と違い、当然いつかは人を殺すこともあるという戦闘態勢にあるので、それなりに戦闘者のロジックが必要なのだと想像できる。

 そして、日本の右翼の場合には、日本古来の武士道がベースになっている気がするが、殺人稼業を営んでいる方達は、武者としての誇りがあるようだ。

 しかし、日本には仏教も輸入されていたので、人を殺すことに誇りを持つ武士道と、仏教の殺生禁断の精神は相容れないので、武士の人達にはある種の劣等罪意識もあったようだ。そして、その意識が強まれば、ストレートに出家という道を歩む人もいたようだが、そのまま武力殺人を肯定する為には、武力殺人を肯定化するロジックを欲するようになるのは、自然の流れと言える。

 そして、そのロジックというのが、「強い力を持つことは、戦争の抑止力になり、人々を豊にする」という考え方だ。そして、こうした自己肯定と共に、そこに今度は儒教的な論理性が加わり、武士の掟というものが作られ、その後、『武士道』として発展していく。

 そして、武士道というのは、主君への忠誠と、自分が属す集団中心の尚武精神の強調が特徴的だが、こうした考え方が、明治維新以降の日本の軍隊の帝国主義にマッチしていったのは想像に難くない。そして、その帝国主義が行き過ぎた結果が、日本が関わった戦争の引き金になっていったと思われる訳だが、その時代の軍国主義に憧れ、国を守る為に死んでいった当時の兵隊こそが、愛国心に満ちていたとして、石原慎太郎などは、とにかく国民に「日の丸」掲揚、国歌斉唱させたいようだが、時代錯誤もはなはだしく、我々の世代にとってはいい迷惑でしかない。

 私は戦争を知らない世代だが、残された記録の片鱗や、他国で現在起きている戦争を見て想像するだけでも、絶対に戦争になど反対と考えている。

 また、経済的に考えても、防衛費に5兆円は使いすぎだと思うし、今現在核兵器を所有していないことは、我が国の誇りだとも考えている。

 別に大袈裟なことではなく、左翼とかバカサヨとかそんな言葉を知らないようなフツーの人達だって、恐らく多くの国民がそんな考えなのではないだろうか? 

 しかし、自民党や石原慎太郎や橋下徹や東国原英夫や、あるいは民主党の中にだって極右の前原のような政治家が、右派的思想によって支持を集めているのが、我が国の現状と言える。






Boy George - The War Song


 日本びいきと言われた、ボーカルのボーイ・ジョージが、最後の方に日本語で♪センソーハンターイ♪♪センソーハンターイ♪と歌っている。




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